通過儀礼における如来とポニョと自己実現

古代人は

先祖代々の言い伝えから
人生における魔境
存在を把握し
(思春期や更年期
厄年みたいなものです)

その年齢になれば
通過儀礼を受けました。

少し間違えれば
死んでしまうような
儀式もありますが

村中でその意味を共有し
支えました。

現代は
個人個人で必要に応じて
しかも
危険に遭遇して
傷ついてから
行われるので

孤独感と危険性
痛々しさは
古代の比ではないでしょう。

一見、高い木や崖から
飛び降りる方が
危険な感じがしますがね。

そして高所から飛び降りる事自体が
目的ではありません。

そのことに伴って
内界で起こる
【死と再生】が
本来の目的です。

【如来】と言いますね。

たとえば阿弥陀如来が
実在するとかしないとか
ではなく

【来るが如し】で

【かのような】ですから
【比喩】であり、

【象徴】としての意味です。

【如人千尺懸崖上樹】
ポ如  崖の上の

であるポニョ
ポニョがいるとかいないとかではなく
と言って単なる絵空事でもなく

家出したい!という
気持ちが
内界からやってくることを
象徴します。

家出したい気持ちを
深く見つめ

【象徴的に家出する】のが
臨床心理学のやり方
なのでしょうね。

つまり
(虐待ケースとかでなければ)
家族から心理的に自立する
ということを意味します。

それは【自己実現】とつながる
橋です。

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