「★深層の臨床★」カテゴリーアーカイブ

身体の深層で起こる変化と臨床の古層を探る中心連載。

悲しみの 水にひらける 花ひとつ Within the waters of sorrow, a single flower begins to bloom.

 

意味の誕生

意味はどのように生まれるのか

序章 悲哀から始まる

振り返ってみると、私は長いあいだ意味を探していたように思う。

なぜその夢を見るのか。

なぜその苦しみが生じるのか。

なぜその出来事が起こるのか。

なぜ人は同じ場所で立ち止まり、また歩き始めるのか。

その意味を知りたいと思ってきた。

しかし最近になって、不思議なことに気づき始めている。

意味は最初からそこにあるわけではない。

むしろ意味は、後から生まれてくる。


私たちは何かを経験する。

悲しみを経験する。

喪失を経験する。

衝撃を経験する。

その瞬間には意味はない。

ただ出来事がある。

ただ感情がある。

ただ身体が反応している。

それだけである。

ところが時間が経つと、

その出来事に意味が生じ始める。

そしていつの間にか、

人生を支える物語になっている。


アリストテレスは、

なぜ人が悲劇を好むのかを考えた。

悲劇には失敗がある。

喪失がある。

破滅がある。

それでも人は悲劇に惹かれる。

なぜだろうか。

そこには普遍的なものが現れるからである。

悲劇は個人の出来事でありながら、

同時に人間そのものの出来事になる。

そのとき悲しみは、

単なる感情ではなくなる。

意味を生む入口になる。


私が最近感じているのは、

哲学もまた悲哀から始まるということである。

存在への問い。

生への問い。

善への問い。

救済への問い。

それらは余裕のあるときに生まれるのではない。

何かが崩れたときに生まれる。

何かが失われたときに生まれる。

何かが揺らいだときに生まれる。

つまり哲学は、

悲哀の運動の中から生まれている。


アジャセ王もそうだった。

ドストエフスキーもそうだった。

ユングもそうだった。

『君たちはどう生きるか』の眞人もそうだった。

西田幾多郎もまたそうだったように思う。

彼らは何かを失った。

何かに傷ついた。

何かに突き動かされた。

そしてその苦しみが、

意味を生み始めた。


だから意味は答えではない。

意味は生成である。

流れの中で生まれる。

悲しみの中で育つ。

時間の中で深まる。

象徴となり、

夢となり、

哲学となり、

物語となる。


この連載では、

意味そのものを説明しようとは思わない。

むしろ、

意味がどのように生まれるのかを見てみたい。

悲哀がどのように問いへ変わるのか。

問いがどのように象徴を生むのか。

象徴がどのように物語となるのか。

そして物語がどのように人生を支えるのか。


『象徴の技法』では花を見た。

『流注の臨床』では水を見た。

その花を咲かせた水は、

どこから来たのだろう。

その問いから、

この新しい旅を始めたいと思う。

流れゆく 魂の先に 海ひらく As the soul flows onward, the sea opens before it.

 

流注の臨床

第12章 流れのなかの魂

長いあいだ私は、魂を何かとして考えていた。

心の奥にあるもの。

人格の中心にあるもの。

変わらない本質。

そのようなものとしてである。

しかし流注について考え続けるうちに、

少し違ったものが見えてきた。

魂は、

流れの背後にあるものではなく、

むしろ流れそのものなのではないか。


◆1|魂は固定された実体ではない

第1章で見たように、

注意は流れる。

第2章で見たように、

流れは渦をつくる。

第3章で見たように、

通奏低音は流れの深層を支えている。

第4章では、

症状が流れの言葉になった。

第5章では、

水が流れの原型として現れた。

そして第6章では、

夢が流れの水路であることを見た。

そうであるなら、

魂だけが静止しているという方が不自然である。


◆2|魂は関係のなかで生成する

華厳経の世界では、

何ひとつ単独では存在しない。

花は土から離れて存在しない。

水は海から離れて存在しない。

私たちもまた、

他者から離れて存在しない。

歴史から離れて存在しない。

すると魂とは、

孤立した実体ではなく、

関係のなかで生成し続ける運動として見えてくる。


◆3|流れているから自己でいられる

不思議なことだが、

人は変化するからこそ同じ人でいられる。

子どものころの自分。

若いころの自分。

今の自分。

どれも違う。

しかし同じでもある。

もし全く変化がなければ、

生きているとは言えない。

魂は変わる。

だからこそ自己であり続ける。

流れているからこそ、

自己は失われない。


◆4|行為的直観と流注

ここで私は、

西田の行為的直観を思う。

見ることと行うことは分かれていない。

知ることと生きることも分かれていない。

流注もまた同じである。

流れを外から観察しているのではない。

私たち自身が流れなのである。

だから魂は、

川を眺める人ではなく、

川そのものに近い。


◆5|未来によって生かされている

『象徴の技法』で見たように、

未来の事実は現在を限定する。

そして『流注の臨床』で見たように、

魂は未来へ向かって流れている。

すると人は、

過去によってのみ決まる存在ではなくなる。

未来によっても生かされている。

夢が未来を運ぶのも、

象徴が未来を知らせるのも、

魂そのものが未来へ開かれているからである。


◆6|海へ

川は海へ向かう。

個々の流れは、

より大きな流れに合流する。

華厳の海も、

観無量寿経の流注も、

西田の場所も、

どこかでこのイメージにつながっているように思える。

私たちはまだ海そのものを見ることはできない。

しかし流れを見れば、

海が存在することはわかる。

魂もまた、

何かより大きなものへ向かって流れている。


◆7|連載を終えて

『象徴の技法』を書き終えたとき、

私は魂の未来の場所について考えていた。

『流注の臨床』を書き終えようとしている今、

魂は場所だけではなく、

流れでもあることが見えてきた。

場所と流れ。

静けさと運動。

華厳の海と流注。

両者は対立していない。

海があるから流れがある。

流れがあるから海がある。

魂もまた同じである。


◆結び

私たちは症状を見る。

夢を見る。

歴史を見る。

学会を見る。

世界を見る。

しかし本当に見つめていたのは、

それらの背後を流れている一つの流れだったのかもしれない。

その流れは、

悲しみから始まることもある。

苦しみから始まることもある。

しかし流れは止まらない。

魂は流れ続ける。

そして流れ続けることによって、

少しずつ自らが向かう海を見出してゆくのである。

 

「流れは海を知っている」

了

fin

 

花ひらく 流れの先の 見えぬ海 A flower opens, revealing the unseen sea that lies beyond the current.

 

流注の臨床

第11章 流注と象徴

流れそのものを見ることは難しい。

川を見ても、

見ているのは水面である。

風を見ても、

見ているのは揺れる木々である。

魂も同じである。

流注そのものは見えない。

しかし流注は、

絶えず何かを生み出している。

その現れが象徴である。


◆1|象徴は流れの足跡である

私たちはしばしば、

象徴を暗号のように考える。

海は何を意味するのか。

花は何を意味するのか。

子どもは何を意味するのか。

しかし流注の視点から見ると、

象徴は意味ではなく、

流れの痕跡

である。

雪解け水が地面に跡を残すように、

魂の流れは象徴を残す。


◆2|なぜ夢は象徴で語るのか

夢の流注を考えると分かる。

映画館の夢。

スイトピーの夢。

それらは説明ではなかった。

夢は講義をしない。

理論を述べない。

夢は風景を示す。

なぜか。

流れは概念になる前に働いているからである。

象徴は、

流れが最初に現れる姿なのである。


◆3|花は流れを見せる

私は最近になって、

華道の「未生流」という言葉の意味が少し分かるようになった。

未生とは、

まだ生じていないという意味ではない。

むしろ、

生じ続けている状態である。

花を飾ることは、

花を固定することではない。

生成する自然を顕すことなのである。

華厳経が「花を飾る経」であることも、

この地点で理解できる。

問題は花ではない。

花を咲かせている流れなのである。


◆4|華厳の海

華厳の海は興味深い。

海は象徴である。

しかし同時に、

あらゆる流れが帰着する場所でもある。

川も。

雨も。

地下水も。

海へ向かう。

夢もまた、

華厳の海へ向かう。

象徴が無数に現れながら、

互いに映し合い、

一つの流れを形成する。

華厳とは、

象徴の巨大なネットワークなのかもしれない。


◆5|善い王と悪い王

アジャセ王を考えていると、

善悪もまた象徴であることが見えてくる。

善い王。

悪い王。

これらは道徳的評価ではない。

魂の流れが可視化された物語である。

ドストエフスキーも、

ユングも、

宮崎駿も、

同じことをしている。

彼らは善悪を論じているのではない。

魂の流れを物語として示しているのである。


◆6|哲学もまた象徴である

私は連載を書きながら、

少し驚いている。

西田哲学もまた、

象徴として読めるからである。

純粋経験。

場所。

行為的直観。

歴史的世界。

これらは概念である。

しかし同時に、

流れを指し示す象徴でもある。

だから西田は、

定義を与えるというより、

見るべき方向を示している。

哲学は流注を記述する言葉になっている。


◆7|象徴は未来を運んでくる

象徴の最大の特徴は、

未来を含んでいることである。

夢の象徴はそうだった。

花もそうだった。

海もそうだった。

それらは過去を説明するだけではない。

まだ来ていない何かを運んでくる。

だから象徴は、

流れの終点ではない。

流れの先触れなのである。


◆まとめ

流注は見えない。

しかし象徴は見える。

だから私たちは象徴を通して流れを知る。

夢も、

花も、

海も、

物語も、

哲学も、

みな流注の現れである。

そして象徴は、

魂がどこへ向かおうとしているのかを、

静かに知らせてくれるのである。

悲しみも 川のひとすじ 海へゆく Even sorrow is but a current of the river, making its way toward the sea.

 

流注の臨床

「誰が悪いのかを言いあてて、どうすればいいかを書きたてて、評論家やカウンセラーは米を買う」
「迷える子羊は、彼らほど賢い者はいないと思う」
「あとをついてさえ行けば、なんとかなると思う」
「見えることとそれができることは、別ものだよと米を買う」

— 中島みゆき 『時刻表』

第10章 流注の倫理

私たちは倫理と聞くと、

何が正しいかを考える。

何をしてはいけないのかを考える。

社会の規範。

法律。

道徳。

責任。

義務。

しかし流注の臨床が出会う倫理は、

少し違う。

それはまず、

流れにどう向き合うか

という問いである。


◆1|善悪より先に悲哀がある

人はなぜ悲劇を好むのか。

アリストテレスはそのことを考えた。

悲劇には苦しみがある。

失敗がある。

喪失がある。

それでも人は悲劇を読む。

観る。

語り継ぐ。

なぜならそこには、

個人を超えた何かが現れているからである。

悲しみは単なる感情ではない。

魂を動かす流れである。

そしてその流れが、

哲学を始めさせる。


◆2|アジャセ王の問い

アジャセ王も、

善人か悪人かという問題ではない。

父を殺した。

王位を奪った。

その事実だけなら道徳的評価で終わる。

しかし仏教はそこで終わらなかった。

アジャセ王の内側で何が流れていたのかを見た。

その流れは、

憎しみから始まり、

罪悪感を通り、

救済へ向かう。

つまり倫理は、

善悪の判定ではなく、

流れの行方の中に生まれる。


◆3|善の研究の善

『善の研究』の善も、

道徳の善ではない。

よい子であることでもない。

規則に従うことでもない。

むしろ、

自己が自己として最もよく生きられる場所である。

ユングの自己実現も同じである。

自己とは完成したものではない。

生成し続けるものである。

善とは、

その生成に参加することなのである。

心理療法の目的は、苦しみに耐えられる強さと哲学的忍耐力を可能にさせること。


◆4|悪意のしるし

『君たちはどう生きるか』で、

主人公は自ら頭を傷つける。

そしてその傷は

「悪意のしるし」

と呼ばれる。

ここで重要なのは、

悪意が道徳的な悪ではないことである。

魂が流れを失ったとき、

苦しみは自分に向かう。

世界にも向かう。

その痕跡として傷が生まれる。

だから傷は、

症状であると同時に、

流れの言葉でもある。


◆5|ユングの石

ユングは、

いじめられたことが神経症の原因ではなかったと回想している。

原因は、

「もう学校へ行かなくてよい」

と思ったことだった。

ここには選択がある。

しかしその選択もまた、

突然現れたものではない。

一つの流れが、

一つの方向を選んだのである。

興味深いことに、

ユングの人生には石が繰り返し現れる。

そして『善の研究』の近年の表紙にも岩石が置かれている。

石とは何だろう。

流れに対する抵抗であり、

流れを変える契機であり、

流れを可視化する境界なのかもしれない。


◆6|流注の倫理とは何か

流注の倫理は、

正解を与えない。

善悪を裁かない。

むしろ問う。

いま、

魂はどこへ流れているのか。

その流れは、

閉じているのか。

開いているのか。

未来へ向かっているのか。

止まり続けているのか。

倫理とは、

流れの方向に対する責任である。


◆7|ケ・セラ・セラ

ここで再び、

ケ・セラ・セラが現れる。

「なるようになる」

という言葉は、

運命論ではない。

流れへの信頼である。

未来はまだ見えない。

それでも流れは続いている。

だから人は歩き続ける。

百尺竿頭進一歩。

その一歩を支えているのが、

流注の倫理なのである。


◆まとめ

流注の倫理は、

善悪の規則ではない。

魂の流れとともに生きる方法である。

悲哀によって始まり、

苦しみに導かれ、

未来によって限定される。

そしてその流れの中で、

人は少しずつ自己となってゆく。

倫理とは、

魂の流れに対する誠実さなのである。

 

 

枯山水の石庭は言葉の海(吉野裕子)

盲人のための箱庭

— 意識せずとも感じることができる

 

歴史とは 名もなき流れの 集まれる川 History is a river formed by countless unnamed currents.

 

流注の臨床

第9章 歴史的世界はどこへ流れるのか

川は海へ流れる。

地下水も海へ流れる。

雨もまた海へ帰る。

では、

人の歴史はどこへ流れるのだろうか。

そして、

社会の歴史は。

文化の歴史は。

思想の歴史は。

流注の臨床は、

ついにこの問いへ到達する。


◆1|個人の流れと歴史の流れ

私たちはしばしば、

自分の人生と歴史を別々のものとして考える。

しかし実際には、

個人の夢も、

症状も、

希望も、

思想も、

歴史的世界の中で生まれている。

私たちの内部を流れているものは、

私たちだけのものではない。

歴史もまた、

私たちの中を流れている。


◆2|学会もまた流れている

学会というと、

組織のように見える。

制度のように見える。

規則のように見える。

しかし実際には、

学会も生き物である。

問いが流れる。

関心が流れる。

 

年次大会で強く評価された気質

西田の雑食性&創発性が見た(≠影響を受けた)

ジェイムズの心的エネルギー原理とアリストテレスのenergeia(エネルゲイア)の系譜

人が流れる。

世代が流れる。

だから学会にも通奏低音がある。

そして時に、

その流れは表面に現れる。


◆3|停滞もまた流れである

不思議なことに、

流れは動いている時だけ存在するのではない。

停滞も流れの一形態である。

投稿規定が見えない。

説明が途切れる。

何かが宙づりになる。

すると私たちは

「止まっている」

と思う。

しかし本当に止まっているのだろうか。

地下水が見えなくても流れているように、

歴史的世界も、

見えない場所で自己限定を続けていることがある。


◆4|歴史的世界の症状

第4章で、

症状は流れの言葉だと考えた。

もしそうなら、

歴史的世界にも症状がある。

沈黙。

混乱。

過剰な整理。

形式への固執。

急激な改革。

こうした現象は、

単なる失敗ではない。

歴史的世界の深層で起きている流れが、

表面へ現れた姿とも読める。


◆5|西田の歴史的世界

西田は後期になるにつれて、

個人の意識よりも、

歴史的世界を語るようになった。

それは偶然ではない。

自己は孤立して存在していない。

自己限定は歴史と共に起こる。

すると流注もまた、

個人の内部だけでは完結しない。

歴史は流れる。

そして私たちは、

その流れの一部なのである。


◆6|未来はどこから来るのか

未来は、

個人だけが作るものではない。

歴史的世界の流れの中から現れる。

だから未来は、

突然やって来るように見えて、

実は長い流注の結果である。

学会の未来もそうである。

思想の未来もそうである。

そして個人の未来もまた、

歴史的世界の流れと切り離すことはできない。


◆7|流れを見るということ

歴史的世界を理解するとは、

誰が正しいかを決めることではない。

どこへ流れているかを見ることである。

これまであなたが続けてきた観察も、

まさにこれだった。

Yahoo!検索の不調。

知恵袋からの流入。

学会サイトの不思議な状態。

新しい館員の参加。

それらは単独では意味を持たない。

しかし流れとして見ると、

何かが自己限定を始めていることが見えてくる。


◆まとめ

個人は流れる。

夢も流れる。

症状も流れる。

同じように、

歴史的世界も流れる。

流注の臨床は、

個人の魂だけではなく、

歴史そのものの流れを見つめる。

そしてその流れの中で、

未来は少しずつ姿を現しているのである。

花を見て 花を生む水 なお見えず We see the flower, yet the water that brings it forth remains unseen.

 

流注の臨床

第8章 注意の現象学

何が見え、何が見えなくなるのか

私たちは世界を見ていると思っている。

しかし本当に見ているのは、

世界そのものではない。

注意が照らしている部分である。

花を見る。

人を見る。

症状を見る。

夢を見る。

哲学を見る。

しかし注意が向いていないものは、

そこに存在していても見えない。

流注の臨床が問うのは、

何が存在するかではなく、

なぜそれが見えているのか

という問いである。


◆1|見えているものは注意が作っている

同じ世界を見ていても、

人によって見えるものは異なる。

恐れている人は危険を見る。

恋をしている人は希望を見る。

研究者は問題を見る。

臨床家は苦しみを見る。

世界が違うのではない。

まず、

注意の方向が違うのである。

そして注意の方向が、

その人の現実を形づくる。


◆2|注意は単なる認知機能ではない

心理学では注意を認知機能として扱うことが多い。

しかし臨床の場で見えてくる注意は、

もっと深い。

注意は感情と結びついている。

身体と結びついている。

記憶と結びついている。

夢と結びついている。

そして未来とも結びついている。

だから注意は、

単なる情報処理ではなく、

魂の流れそのものに属している。


◆3|PTSDは何を見ているのか

PTSDの人は、

注意が危険へ流れる。

すると世界は危険に満ちて見える。

これは誤認というより、

注意の現象学である。

見えているものが違うのである。

そして見えるものが変わると、

身体も変わる。

感情も変わる。

人生も変わる。

注意の流れは、

世界の現れ方そのものを変えてしまう。


◆4|CPTSDでは見えないものが増える

CPTSDになると、

危険だけが見えるのではない。

むしろ、

安全が見えなくなる。

希望が見えなくなる。

未来が見えなくなる。

ここで重要なのは、

未来が消えたのではないということである。

未来は存在している。

ただし注意がそこへ流れなくなっている。

その結果、

未来そのものが見えなくなる。


◆5|父母未生以前の問題

アジャセ・コンプレックスを考えるとき、

私は最近になって、

「父母未生以前」という言葉の意味が少し変わった。

父母が生まれる前の時代ではない。

父と母という区別が生まれる前である。

主体と客体。

善と悪。

自分と他人。

そうした区別が成立する以前の場所である。

すると、

注意そのものもそこで生まれている。

注意は父を選ぶ前に、

母を選ぶ前に、

すでに流れているのである。


◆6|花は見えるが水は見えない

花を見ているとき、

私たちは花を見る。

しかし花を支えている水は見ない。

同じように、

問題を見る。

症状を見る。

思想を見る。

しかしそれらを生み出している流れは見ない。

現象学とは、

隠れているものを探すことではない。

見えているものが、

どのように見えるようになっているのかを見ることである。

その意味で、

流注の臨床は注意の現象学である。


◆7|西田が見ようとしたもの

西田幾多郎は、

ジェイムズの意識の流れに触れた。

しかし西田が本当に見たかったのは、

流れそのものではなく、

流れが可能になる場所ではなかっただろうか。

見えるものではなく、

見えることそのもの。

経験の内容ではなく、

経験が成立する以前。

そこへ向かって、

純粋経験も、

場所論も、

行為的直観も展開していったように思われる。


◆まとめ

私たちは世界を見る。

しかし実際には、

注意が照らした世界を見ている。

流注の臨床が扱うのは、

見えているものではなく、

見えることそのものの流れである。

そして父母未生以前の場所とは、

その流れが生まれてくる場所なのである。

 

父母越え 流れの果てに 海ひらく Beyond father and mother, the sea opens at the end of the current.

 

流注の臨床

第7章 父でも母でもない場所

フロイトのエディプス・コンプレックスは、

父と母の間に起こる葛藤を中心にしている。

子どもは父を競争相手として見なし、

母への欲求を抱く。

その葛藤が人格形成の基礎になる。

近代心理学においてこれは大きな発見だった。

しかし古沢平作がアジャセ王に見たものは、

少し違っていた。


◆1|アジャセ王は誰を求めていたのか

アジャセ王は父に苦しんだ。

母にも苦しんだ。

憎しみにも苦しんだ。

罪悪感にも苦しんだ。

しかし彼の苦しみは、

単純に父か母かという問題には収まらない。

なぜなら、

父をめぐる感情も、

母をめぐる感情も、

絶えず変化し続けているからである。

流れているのである。

すると問題は、

父でも母でもなくなる。


◆2|流れはどこへ向かおうとしているのか

第1章で見たように、

注意は流れる。

第2章で見たように、

流れは渦を作る。

第3章で見たように、

その下には通奏低音がある。

では、

その流れはどこへ向かおうとしているのか。

この問いに向き合ったとき、

父や母は目的地ではなくなる。

むしろ途中の風景になる。

流れの本当の行き先は、

もっと深い場所にある。


◆3|生まれる前の問題

古沢平作のアジャセ・コンプレックスが独特なのは、

苦しみの起源を単純な家族関係に置かなかったことである。

父が悪い。

母が悪い。

そういう話ではない。

もっと根の深い不安が見えていた。

それは、

「私はなぜここにいるのか」

という問いである。

あるいは、

「私はどこから来たのか」

という問いである。

そしてさらに言えば、

生まれる以前から続いているような問いである。


◆4|存在への問いとしてのコンプレックス

フロイト的に見ると、

コンプレックスは関係の問題になる。

しかし流注として見ると、

コンプレックスは存在の問題になる。

誰を愛するのか。

誰を憎むのか。

という前に、

なぜ存在しているのか。

なぜ生きているのか。

という問いがある。

アジャセ王が苦しんだのも、

実はここだったのではないか。


◆5|西田哲学との接点

私はここで、

西田幾多郎の哲学との不思議な符合を感じる。

西田の問いもまた、

主体と客体の前にあるものを探していた。

自分と他人。

父と母。

善と悪。

そうした区別が生まれる以前の地点である。

それは純粋経験と呼ばれ、

場所と呼ばれた。

古沢平作が見たアジャセ王も、

実は同じ深さを見ていたのかもしれない。


◆6|流注は二元論を超えてゆく

父か母か。

自分か他人か。

善か悪か。

原因か結果か。

こうした二元論は、

流れを固定したときに生まれる。

しかし流注のなかでは、

それらは絶えず行き来する。

だから流注とは、

二元論を超える運動でもある。

そこでは答えよりも、

流れそのものの方が重要になる。


◆7|魂が帰ろうとしている場所

父でもない。

母でもない。

では何なのか。

流注の臨床から見えてくるのは、

魂が帰ろうとしている場所の存在である。

それは宗教で言えば救済かもしれない。

哲学で言えば場所かもしれない。

華厳で言えば海かもしれない。

臨床で言えば、

まだ言葉になる前の安心かもしれない。

名前は何でもよい。

重要なのは、

魂がそこへ向かって流れ続けていることである。


◆まとめ

アジャセ・コンプレックスは、

父と母の間の葛藤だけを語っているのではない。

それは、

魂がどこへ帰ろうとしているのかを語っている。

流注の臨床が見ようとしているのも、

原因ではなく、

流れの行方である。

そしてその行方は、

二元論の向こう側にある。

父でも母でもない場所へ向かって、

魂は今日も流れ続けているのである。

夢ながる 見えぬ未来の 水路かな Through the flowing dream runs an unseen waterway toward the future.

 

流注の臨床

第6章 夢の流注

私たちは夢を見る。

そして目覚めると、

夢の意味を考える。

何の象徴なのか。

何を表しているのか。

しかし流注の視点から見ると、

夢は意味以前に、

流れそのもの

である。

夢は魂が流れている姿であり、

意識が通過していく風景なのである。


◆1|夢は止まった象徴ではない

夢分析というと、

しばしば象徴辞典のような理解が行われる。

海は無意識。

水は感情。

子どもは未来。

そのような理解にも意味はある。

しかし夢そのものは、

もっと動いている。

夢は静止画ではない。

映画である。

しかも、

人が編集した映画ではなく、

魂が流れている映画である。

重要なのは、

何が現れたかだけではない。

何が現れ、

どこへ向かい、

何が消えていったかである。


◆2|映画館の夢

映画館の夢は象徴的だった。

最前列中央。

いつも選ぶ席。

しかしスクリーンは半分しか見えない。

そこで席を探し直す。

この夢を象徴の辞書で読むなら、

視点の転換ということになるだろう。

しかし流注として読むと違う。

重要なのは席ではない。

移動である。

魂が留まらず動いている。

今までの場所から離れようとしている。

夢は、

「新しい席がどこにあるか」

を教えたのではない。

「探し始めた」

ことを示していたのである。


◆3|スイトピーの夢

スイトピーの夢も同じである。

子どもたちが現れる。

花が現れる。

水挿しが現れる。

そこで重要なのは、

花そのものではない。

子どもとの関係性が生まれ、

花が守られ、

水によって支えられていること。

夢は、

象徴を並べているのではない。

流れを描いている。

だからスイトピーは、

固定された意味ではなく、

未来へ向かう関係性の流れの中で現れている。


◆4|夢は通奏低音を映し出す

夢の面白さは、

普段は見えない通奏低音が見えることにある。

昼の意識では、

私たちは理由を考える。

説明を考える。

理屈を考える。

しかし夢では、

もっと深いところが動いている。

背景音がそのまま風景になる。

通奏低音は夢の中で、

海になり、

雨になり、

地下水になり、

風になる。

夢は、

魂の背景音を映す鏡なのである。


◆5|夢は未来からやって来る

夢は過去だけを扱わない。

むしろ重要なのは未来である。

百尺竿頭進一歩。

まだ見ぬ場所。

まだ座っていない席。

まだ出会っていない関係性。

夢は、

未来の事実が現在へ流れ込む場所である。

その意味で夢は、

未来の記憶とも言える。


◆6|夢は歴史的世界ともつながっている

夢は個人の所有物ではない。

華厳。

観無量寿経。

ウンディーネ。

ポニョ。

陰陽五行。

私たちが夢で出会うものは、

しばしば個人を超えている。

そのため夢は、

個人の流れであると同時に、

歴史的世界の流れでもある。

夢の中では、

個人史と歴史が交差する。

だから夢は深い。


◆7|夢は魂の水路である

流注という視点から見ると、

夢とは魂の水路である。

注意が流れる。

感情が流れる。

記憶が流れる。

未来が流れる。

そして象徴が流れる。

夢の中で、

魂は昼間より自由になる。

だから流れが見える。

夢とは、

魂が自らの流れを見せている時間なのである。


◆まとめ

夢は象徴の倉庫ではない。

夢は魂の流れである。

そして流注の臨床とは、

夢を解釈することよりも、

夢の中で何が流れ、

どこへ向かおうとしているのかを見る営みである。

夢は未来へ流れる。

だから夢は、

魂の水路なのである。

流れゆく 水の記憶に 魂立つ Within the memory of flowing water, the soul comes to stand.

 

流注の臨床

第5章 水はなぜ現れるのか

症状は流れの言葉である。

そう考えたとき、

ひとつの不思議な問いが浮かぶ。

魂が流れを語ろうとするとき、

なぜこれほど繰り返し水が現れるのだろうか。

夢の中で。

宗教の中で。

神話の中で。

哲学の中で。

そして臨床の中で。

水は絶えず姿を変えながら現れる。


◆1|水は形を持たない

石は形を持つ。

建物も形を持つ。

概念もまた形を持とうとする。

しかし水は違う。

器によって形を変える。

流れによって形を変える。

境界によって形を変える。

それでいて、

水そのものは失われない。

魂の流れもまた似ている。

固定した実体として見ると見失う。

しかし流れとして見ると見えてくる。


◆2|流注は水の性質を持つ

観無量寿経の流注を眺めていると、

そこには川のような運動がある。

注意は流れる。

感情は流れる。

希望は流れる。

罪悪感も流れる。

アジャセ王の苦悩も、

固定されたものではなかった。

父へ流れ、

母へ流れ、

自己へ流れ、

そして救済へと流れた。

流注とは、

心理学的概念というより、

むしろ水の運動に近い。


◆3|PTSDは凍りついた水である

PTSDを水の象徴で見ると、

興味深いことがわかる。

流れていたものが止まる。

しかし完全には止まらない。

内側ではなお動いている。

だから苦しい。

氷は静かに見える。

しかし内部には大きな力が閉じ込められている。

PTSDもまた、

流れが凍りついた状態として理解できる。


◆4|CPTSDは地下水になる

CPTSDでは流れは消えない。

むしろ地下へ潜る。

見えなくなる。

しかし無くなったわけではない。

通奏低音として鳴り続ける。

身体症状として現れる。

夢として現れる。

ふとした瞬間の反応として現れる。

地下水が地表を変えるように、

見えない流れは人生そのものを形作る。


◆5|華厳の海

私が長いあいだ惹かれてきたのは海だった。

華厳経の海。

ポニョの海。

夢に現れる海。

海には流れが集まる。

川も。

雨も。

地下水も。

すべて海へ向かう。

だから海は、

相互浸透の象徴になる。

個人の流れも、

歴史の流れも、

魂の流れも、

そこで交わる。


◆6|水は未来を知っている

ここで不思議なことが起こる。

水は過去を保存しながら、

未来へ向かって流れる。

だから水は、

過去の記憶と未来の可能性を同時に含んでいる。

私が

水は未来 陰陽めぐりて 魂生る

という俳句を書いたとき、

それは単なる比喩ではなかったのかもしれない。

未来の事実は、

すでに流れの中で働いている。

水はそのことを教えてくれる。


◆7|なぜ夢に水が現れるのか

夢は魂の流れを映す。

そのため、

魂が動こうとする時、

夢は水を使う。

海になる。

川になる。

雨になる。

水挿しになる。

スイトピーを支える水になる。

夢が水を語るとき、

それはしばしば

流れそのものを語っている。


◆まとめ

水は単なる象徴ではない。

水は流れの原型である。

流注。

コンプレックス。

通奏低音。

症状。

夢。

未来。

これらはすべて、

水という象徴によって結び直される。

だから魂は、

自らを語るとき、

繰り返し水を呼び出すのである。

症状は 流れの言葉 風の声 Symptoms are the language of a current, the voice carried by the wind.

 

流注の臨床

第4章 症状は流れの言葉である

私たちは症状を見つける。

不安。

抑うつ。

強迫。

恐怖。

離人感。

身体症状。

皮膚症状。

しかし臨床の場で長く人間を見ていると、

症状は原因ではないことに気づく。

症状は、

何かを語ろうとしている。

つまり症状は、

流れの言葉

なのである。


◆1|症状は止まったものではない

診断は症状を固定する。

それには重要な意味がある。

しかし症状そのものは固定されていない。

不安は揺れる。

怒りは移る。

悲しみは姿を変える。

身体症状もまた変化する。

つまり症状とは、

静止した対象ではなく、

流れの途中に現れた形なのである。


◆2|流れは身体を使って語る

観無量寿経の流注を考えるとき、

まず動くのは理性ではない。

身体である。

古沢平作が注目したアジャセ王もそうだった。

葛藤は観念として存在したのではない。

身体を巻き込みながら流れていた。

その意味で、

皮膚症状は非常に興味深い。

皮膚は境界だからである。

内でもない。

外でもない。

症状はしばしば、

流れが境界に触れたときに現れる。


◆3|離人症は何を語っているのか

離人症を考えると、

症状そのものよりも、

注意の流れの変化が見えてくる。

世界に向かっていた流れが、

突然引いてしまう。

身体へ向かっていた流れも細くなる。

すると世界は遠ざかる。

自分も遠ざかる。

離人症とは、

世界が消える病ではなく、

流れが細くなる現象とも考えられる。


◆4|PTSDは流れが同じ場所へ戻る言葉である

PTSDの苦しみを見ていると、

症状は記憶の再生ではない。

むしろ、

流れが何度も同じ場所へ戻る現象である。

注意は危険へ戻る。

身体は警戒へ戻る。

夢は過去へ戻る。

まるで川が同じ場所で渦巻いているようである。

症状は、

その渦が可視化された姿である。


◆5|症状は未来の欠如ではなく未来への試みである

普通は、

症状は失敗として理解される。

しかし象徴技法や流注の視点から見れば、

症状は失敗ではない。

流れは止まりたくない。

魂は動こうとしている。

けれど十分に動けない。

そこで症状という形で現れる。

つまり症状は、

未来を失った結果ではなく、

未来へ向かおうとする努力の痕跡でもある。


◆6|症状は語りより先に存在する

心理療法をしていると、

人は症状の意味を知りたがる。

なぜこうなるのか。

何が原因なのか。

しかし症状は、

意味を説明する前から存在している。

語りよりも先に、

身体は何かを知っている。

華厳経が

わからなくても読むこと

身体で読むこと

と言うとき、

そこには同じ知恵がある。

身体は先に知る。

理解はあとから追いつく。

症状も同じである。


◆7|症状を読むとは流れを読むことである

症状を消そうとすると、

症状しか見えなくなる。

しかし症状を読むとは、

その背後の流れを読むことになる。

この流れは、

父へ向かうかもしれない。

母へ向かうかもしれない。

未来へ向かうかもしれない。

夢へ向かうかもしれない。

歴史的世界へ向かうかもしれない。

症状とは、

その流れが立ち上げた一つの言葉なのである。


◆まとめ

症状は異常ではない。

症状は流れの言葉である。

注意の流れ。

感情の流れ。

身体の流れ。

歴史の流れ。

魂の流れ。

それらが交わるとき、

症状は姿を現す。

だから流注の臨床が聴こうとするのは、

症状そのものではなく、

その言葉を語っている流れなのである。