意味の誕生
意味はどのように生まれるのか
序章 悲哀から始まる
振り返ってみると、私は長いあいだ意味を探していたように思う。
なぜその夢を見るのか。
なぜその苦しみが生じるのか。
なぜその出来事が起こるのか。
なぜ人は同じ場所で立ち止まり、また歩き始めるのか。
その意味を知りたいと思ってきた。
しかし最近になって、不思議なことに気づき始めている。
意味は最初からそこにあるわけではない。
むしろ意味は、後から生まれてくる。
私たちは何かを経験する。
悲しみを経験する。
喪失を経験する。
衝撃を経験する。
その瞬間には意味はない。
ただ出来事がある。
ただ感情がある。
ただ身体が反応している。
それだけである。
ところが時間が経つと、
その出来事に意味が生じ始める。
そしていつの間にか、
人生を支える物語になっている。
アリストテレスは、
なぜ人が悲劇を好むのかを考えた。

悲劇には失敗がある。
喪失がある。
破滅がある。
それでも人は悲劇に惹かれる。
なぜだろうか。
そこには普遍的なものが現れるからである。
悲劇は個人の出来事でありながら、
同時に人間そのものの出来事になる。
そのとき悲しみは、
単なる感情ではなくなる。
意味を生む入口になる。
私が最近感じているのは、
哲学もまた悲哀から始まるということである。

存在への問い。
生への問い。
善への問い。
救済への問い。
それらは余裕のあるときに生まれるのではない。
何かが崩れたときに生まれる。
何かが失われたときに生まれる。
何かが揺らいだときに生まれる。
つまり哲学は、
悲哀の運動の中から生まれている。
アジャセ王もそうだった。
ドストエフスキーもそうだった。
ユングもそうだった。
『君たちはどう生きるか』の眞人もそうだった。
西田幾多郎もまたそうだったように思う。
彼らは何かを失った。
何かに傷ついた。
何かに突き動かされた。
そしてその苦しみが、
意味を生み始めた。
だから意味は答えではない。
意味は生成である。
流れの中で生まれる。
悲しみの中で育つ。
時間の中で深まる。
象徴となり、
夢となり、
哲学となり、
物語となる。
この連載では、
意味そのものを説明しようとは思わない。
むしろ、
意味がどのように生まれるのかを見てみたい。
悲哀がどのように問いへ変わるのか。
問いがどのように象徴を生むのか。
象徴がどのように物語となるのか。
そして物語がどのように人生を支えるのか。
『象徴の技法』では花を見た。
『流注の臨床』では水を見た。
その花を咲かせた水は、
どこから来たのだろう。
その問いから、
この新しい旅を始めたいと思う。









