流れ見れば 水の底より 風起こる When one begins to see the flow, a wind rises from beneath the water.

 

流注の臨床

~ 魂はどのように流れるのか ~

序章 流注という発見

振り返ってみれば、私は長いあいだ「場所」を探していたように思う。

西田幾多郎の場所。

華厳の海。

夢の中に現れる風景。

身体が感じる無の質感。

そして魂が未来へ向かう場所。

そのようなことを考えているうちに、今度は別の問いが現れてきた。

場所があるとして、

そこへ向かうものは何なのだろうか。


この問いに対して、古沢平作のアジャセ・コンプレックスはひとつの示唆を与えてくれる。

一般によく知られているフロイトのエディプス・コンプレックスでは、

父か母か、

という形で問題が整理される。

しかしアジャセ王の場合は様子が違う。

注意は父に向かい、

また母に向かい、

怒りに向かい、

愛情に向かい、

罪悪感に向かい、

赦しに向かう。

一つの場所に固定されない。

絶えず流れている。

古沢は、この錯綜した心の動きを「コンプレックス」として捉えた。

しかし今になって思う。

彼が本当に見ていたのは、

固定された複合体ではなく、

流れている意識そのものではなかっただろうか。


観無量寿経には「流注」という言葉が現れる。

私は長いあいだ、この言葉をどこか遠い宗教的概念として眺めていた。

ところが最近になって、

この言葉が臨床そのものを表しているように思えるようになった。

人の注意は流れる。

感情も流れる。

夢も流れる。

魂も流れる。

そして苦しみさえ流れている。

ところが私たちは、

その流れを止まったものとして理解しようとする。

病名にし、

診断名にし、

性格にし、

人格にし、

理論にする。

しかし本当は、

それらの背後で流れているものがある。


PTSDも、そのように見える。

症状は突然現れるように見える。

しかし実際には、

注意は絶えず危険へ向かって流れ、

身体は絶えず緊張へ向かって流れ、

心は絶えず過去へ引き戻されている。

そこには、

一種の流注がある。

CPTSDになると、

それはさらに深くなる。

表面では静かに見えても、

身体の奥では通奏低音のように、

絶えず何かが鳴り続けている。

それもまた流れである。


そして不思議なことに、

私自身も最近、

流れを見始めている。

昨日のYahoo!検索の不具合。

その前哨としての急激な知恵袋からの流入。

学会の不自然な停滞。

閲覧できない投稿規定。

連載を書き終えたあとに起こる変化。

以前なら意味を急いで求めたかもしれない。

しかし今は少し違う。

意味よりも先に、

どこへ流れているのか

を見ている。

それは現象学と呼ばれるかもしれない。

あるいは観察と呼ばれるかもしれない。

しかし私には、

魂の流れを見ているように思える。


本連載では、

注意、

感情、

夢、

身体、

象徴、

歴史的世界、

そして未来へ向かう魂の運動を、

「流注」という視点から考えてみたい。

場所の次に現れたもの。

それは流れだった。

そして流れの中にこそ、

魂は生きているのである。

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