臨床の深層・閑話休題
見性とは現実から立ち上がってくることである
コメント欄でのやり取りを続けながら、ひとつ重要なことに気づいた。
私は当初、相手のコメントへの返答を書いているつもりだった。
しかし後から振り返ると、同時期に別の人へ書いていたコメントも含め、それらは同じ課題に対する私自身への応答でもあった。
相手の問いに答えているつもりが、自分自身も答えさせられていたのである。
これは転移や逆転移という臨床的な言葉でも説明できる。
しかしそれ以上に、禅でいう見性に近いものではないかと思い始めている。
見性というと、何か特別な悟りの体験を想像しやすい。
だが、今回私に起きたことはもっと地味で現実的な出来事だった。
コメントを書く。
返信を読む。
考える。
別の人に返信する。
昔のドラマを見直す。
年次大会で聞いた話を思い出す。
すると、それまで別々だった出来事が、ある瞬間につながり始める。
私が無理に結びつけたのではない。
現実の側から立ち上がってきたのである。
あるコメンターは、
「象徴が動くための時間そのものが止まっているような感覚です」
と書かれていた。
その言葉を読んだとき、私は象徴化の失敗というよりも、
未来が現在を呼ぶ運動そのものが停止している状態を考えた。
そして、それに対して森田療法の「あるがまま」とユングの態度を重ねながら考えていた。
すると一つのことが見えてきた。
あるがままを否定しないことと、
あるがままに呑み込まれることは違う。
ユングは、あるがままを認めながらも、それと向き合う主体の態度を重視した。
日本の禅僧から
「集合的無意識は超えられるのか」
と問われたユングは、しばらく逡巡した後、
「ヤー」
と答えたという。
私は最近、この逸話の意味が少し違って見えている。
ユングが禅を理解したのではない。
その問いを受け取ったユング自身が動かされたのである。
つまり、その時の出来事はユングによる回答ではなく、ユングにも起きた見性だったのではないか。
コメント欄で起きていることも同じである。
私が誰かに答えているのではない。
相手の問いによって私も動かされている。
そして、その運動のなかで新しい理解が立ち上がる。
西田の言う行為的直観も、おそらくこういうものなのだろう。
まず考えるのではない。
まず現実が動く。
その運動のなかから理解が立ち上がる。
見性とは、頭の中でつくるものではなく、現実から立ち上がってくるものなのである。