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深層の臨床・閑話休題2

臨床の深層・閑話休題

見性とは現実から立ち上がってくることである

コメント欄でのやり取りを続けながら、ひとつ重要なことに気づいた。

私は当初、相手のコメントへの返答を書いているつもりだった。

しかし後から振り返ると、同時期に別の人へ書いていたコメントも含め、それらは同じ課題に対する私自身への応答でもあった。

相手の問いに答えているつもりが、自分自身も答えさせられていたのである。

これは転移や逆転移という臨床的な言葉でも説明できる。

しかしそれ以上に、禅でいう見性に近いものではないかと思い始めている。

見性というと、何か特別な悟りの体験を想像しやすい。

だが、今回私に起きたことはもっと地味で現実的な出来事だった。

コメントを書く。

返信を読む。

考える。

別の人に返信する。

昔のドラマを見直す。

年次大会で聞いた話を思い出す。

すると、それまで別々だった出来事が、ある瞬間につながり始める。

私が無理に結びつけたのではない。

現実の側から立ち上がってきたのである。


あるコメンターは、

「象徴が動くための時間そのものが止まっているような感覚です」

と書かれていた。

その言葉を読んだとき、私は象徴化の失敗というよりも、

未来が現在を呼ぶ運動そのものが停止している状態を考えた。

そして、それに対して森田療法の「あるがまま」とユングの態度を重ねながら考えていた。

すると一つのことが見えてきた。

あるがままを否定しないことと、

あるがままに呑み込まれることは違う。

ユングは、あるがままを認めながらも、それと向き合う主体の態度を重視した。


日本の禅僧から

「集合的無意識は超えられるのか」

と問われたユングは、しばらく逡巡した後、

「ヤー」

と答えたという。

私は最近、この逸話の意味が少し違って見えている。

ユングが禅を理解したのではない。

その問いを受け取ったユング自身が動かされたのである。

つまり、その時の出来事はユングによる回答ではなく、ユングにも起きた見性だったのではないか。


コメント欄で起きていることも同じである。

私が誰かに答えているのではない。

相手の問いによって私も動かされている。

そして、その運動のなかで新しい理解が立ち上がる。

西田の言う行為的直観も、おそらくこういうものなのだろう。

まず考えるのではない。

まず現実が動く。

その運動のなかから理解が立ち上がる。

見性とは、頭の中でつくるものではなく、現実から立ち上がってくるものなのである。

読み継げば 場の立ち上がる 秋の風 

A Living Place

My thoughts did not begin from theory.

A comment led to another comment.
A memory led me back to an old drama.
An old scene opened a new understanding.

I was not simply thinking about philosophy.
Rather, philosophy was happening through real encounters, memories, and responses.

A living place emerged between experience and reflection.

臨床の深層・閑話休題

コメント欄のなかで動く歴史的身体

最近、自分でも面白い経験をしている。

西田哲学会の年次大会に参加し、その余韻のなかで学会の論文見本や現在の学会状況について考えていた。最初は単純な違和感だった。見本論文は整っている。論理もきれいだ。しかし何かが足りない。

そのとき思い出したのが、大会で若い哲学館員が紹介した西田幾多郎の読書法だった。

西田は本を読むとき、指に唾をつけながらページをめくり、余白に激しく書き込み、時には怒って読むのをやめたという。

論理の説明ではない。

読みながら身体が動いている。

その話が妙に心に残った。

すると、それまで単なる論文見本だったものが違って見え始めた。

なるほど、この文章には身体がいないのだ。

考えられたことは書かれている。

しかし、考える前に動いていた身体の痕跡がない。


そこから思索は予想外の方向へ進んだ。

私はコメント返しを書いた。

そして時間をおいて、自分自身のコメントにさらに返信した。

すると今度は、まったく別のところから連想が現れた。

十年以上前のドラマの冒頭を見直したのである。

すると、それまで見えていなかったものが見えてきた。

主人公は単なる優秀な弁護士ではなかった。

庶民的な生活世界のなかから現れた、時代の最先端を生きる実務家として描かれていた。

さらに見ているうちに、DVやPTSDをめぐる問題、個性化の問題、自分自身が経験した出来事などが次々と結びつき始めた。

理論を適用したわけではない。

身体が動き、その結果として思考がついてきたのである。


面白いことに、この流れは西田の「行為的直観」とよく似ている。

まず理解があるのではない。

まず動く。

動いた結果として見えてくる。

考えてから経験するのではなく、経験したものによって考えが変化する。

それはピアジェの言う感覚運動期にも似ている。

乳幼児はまず触る。

動く。

失敗する。

そして世界を組み立てる。

哲学も本来そうだったのかもしれない。


さらに考えているうちに、「象徴とは未来の事実が現在の事実を限定する運動である」という自分の考えが、ここでも生きていることに気づいた。

コメントを書く。

返事が来る。

思わぬ連想が起きる。

昔見たドラマを見直す。

そこで新しい理解が生まれる。

未来の理解が、まだ理解していない現在の自分を引っぱっている。

だから私は考えているのではなく、考えさせられている。

動いているのではなく、動かされている。


禅宗でいう「作家」という言葉も、最近になって少し分かった気がする。

小説を書く人という意味ではない。

自らの生を作り出す人である。

もっと正確に言えば、自分のなかに新しい場を生成する人である。

コメントを書く。

誰かの言葉を読む。

違和感を抱く。

反論したくなる。

昔の作品を見直す。

そこで別の意味が現れる。

そうやって場が生成する。

今起きていることは、単なる哲学研究ではない。

リアルな出来事のなかで、歴史的身体が動き、その結果として理論が少しずつ深まっていく過程なのだと思う。

だから最近の私は、哲学を頭で考えているというよりも、コメント欄や日常の出来事を通して、哲学に考えさせられているのである。