月別アーカイブ: 2026年10月

水は未来 連載終えて なお流る Water is the future; though the series ends, the current still flows.

あとがき

この連載を書き始めたとき、私は「象徴技法」というものを体系として持っていたわけではなかった。

むしろ、長年の臨床経験や夢、華厳経や西田哲学への関心、陰陽五行やジブリ作品への考察など、ばらばらに存在していたものを見つめ直していただけである。

ところが書き進めるうちに、不思議なことが起こった。

新しいことを学んだという感覚ではない。

むしろ、自分がすでに見ていたものが、少しずつ構造として姿を現してきたのである。

西田哲学についても同じだった。

理解できなかったものが理解できるようになったというより、

理解していたことが、よりシンプルに見えるようになった。

その結果として、難解に感じていた哲学が、感覚として腑に落ちるようになった。

それは重厚な理解というよりも、むしろ軽みである。

西田幾多郎が晩年に到達した透明さが、ほんの少しだけ理解できた気がする。

また、この連載を書いているあいだに、アメブロのアクセス数についても興味深い経験をした。

アクセス数は大きく変動し、ときには急増し、ときには激減した。

しかし後になって、それらの数字の多くが実態を反映したものではないことも分かった。

その一方で、「いいね」やコメント、ランキングには別の傾向が見られた。

そして連載完了の直後に、アメブロから

「人気な記事のようです。ブログトップに記事を固定して注目度をあげてみませんか?」

という案内が届いた。

対象になったのは、

「水は未来 陰陽めぐりて 魂生る」

という記事だった。

これは偶然なのかもしれない。

しかし連載全体を振り返ると、最後に残った象徴が「水」だったことは確かである。

水は、華厳の海として現れた。

ウンディーネとして現れた。

ポニョの海として現れた。

夢の中の水挿しとして現れた。

そして、未来へ向かう魂の運動の象徴として現れた。

連載は完了した。

しかし、水は流れ続けている。

私自身もまた、少し違う場所から世界を見始めているように感じる。

数日ほど時間をおいて、また次の問いに向かいたいと思う。

百尺の先 海のひかりに 魂ゆく Beyond the hundred-foot pole, the soul moves toward the sea of light.

 

第12章

令和の臨床哲学──象徴技法はどこへ向かうのか

この連載では、

魂の未来の場所

ということを考えてきた。

魂は固定された実体ではなく、

未来へ向かいながら現在を限定し続ける運動である。

その運動が象徴として現れ、

夢として現れ、

身体として現れ、

歴史的世界の深層として現れる。

私はそのことを、

象徴技法

と呼んできた。


◆ 1|臨床は「治すこと」から「生成を支えること」へ

二十世紀の臨床心理学は、

苦しみを理解することに力を注いだ。

そして多くの成果を生んだ。

しかし令和の時代に必要なのは、

苦しみを説明することだけではない。

その人の魂が、

どの未来へ向かって生成しようとしているのか。

その運動を支えることである。

象徴技法は、

症状を消すための技法ではない。

魂の生成を支える方法論である。


◆ 2|哲学は概念から場所へ向かう

西田幾多郎は、

生涯をかけて

場所

を問うた。

そして大橋良介は、

「事実が事実を限定する」

という現象学的課題を示した。

私には、

これらは別々の問いには見えない。

どちらも、

現在の事実がどのように未来へ向かって自己限定するのか

を問うている。

象徴技法は、

その問いを身体と臨床の側から引き受けようとする試みである。


◆ 3|東洋と西洋のあいだ

河合隼雄は、

ユング心理学は日本的に翻訳されなければならない

と書き残した。

西田は、

東洋の論理を探した。

華厳は、

相互浸透する世界を描いた。

陰陽五行は、

生成し続ける存在を描いた。

一方で、

現象学は経験を問う。

ヘーゲルは生成を問う。

ユングは象徴を問う。

私はここに対立を見るのではなく、

一つの流れを見ている。

象徴技法とは、

東洋と西洋を接続するための翻訳作業である。


◆ 4|未来は説明されるのではなく生きられる

象徴が働くとき、

人は何かを理解する。

しかし本質は理解ではない。

魂の位置が変わる。

すると世界が変わる。

同じ出来事が違って見える。

同じ過去が違う意味を持つ。

同じ未来が違う光を帯びる。

未来とは、

説明されるものではない。

生きられるものである。

だから象徴は、

言葉より先に身体に触れる。


◆ 5|令和の臨床哲学

令和という時代は、

正解を提示する時代ではない。

むしろ、

未来の生成に耐える時代である。

だから必要なのは、

強い教義ではない。

固定された理論でもない。

魂が未来に向かって自己限定する運動を支える知である。

それが、

私の考える

令和の臨床哲学

である。


◆ 6|百尺竿頭進一歩

この連載は、

百尺竿頭進一歩

という言葉から何度も力を与えられてきた。

崖の上のポニョ。

華厳の海。

夢の映画館。

スイトピー。

ケ・セラ・セラ。

どれも、

同じ方向を指していたように思う。

今いる場所を離れ、

まだ見ぬ場所へ向かうこと。

未来の事実に導かれて、

現在を限定し直すこと。

象徴技法とは、

その一歩を支える技法なのである。


◆ 結び

未来は遠くにあるのではない。

未来は、

すでに現在の中で働いている。

夢の中で。

身体の中で。

歴史的世界の深層で。

象徴の中で。

魂は、

その呼び声に応じながら、

少しずつ未来の場所へ移動してゆく。

そして私たちは、

その運動を見守り、

言葉にし、

支える。

それが臨床であり、

それが哲学であり、

それが象徴技法なのである。

 

了

fin

象徴の技法 ── 未来のほとりで魂を導く

Symbolic Technique: Guiding the Soul at the Edge of the Future

場の揺れ 未来の波が 岸を打つ The field begins to tremble as waves from the future reach the shore.

 

第11章

昨年の学会発表の意味

象徴技法から見た西田哲学会の現在

昨年の発表を振り返るとき、

私は採否の問題そのものよりも、

その発表が置かれた場の反応に興味を持つ。

なぜなら、

発表とは単なる情報伝達ではなく、

歴史的世界における一つの出来事だからである。

そして出来事は、

いつも場の深層を揺らす。


◆ 1|発表は場を映す鏡である

学会発表は、

研究成果の提示であると同時に、

その学会が何を受け入れ、

何を受け入れられないかを映し出す。

発表が拒否されたか、

受理されたかは、

本質ではない。

重要なのは、

その発表によって

何が可視化されたのか

である。

象徴技法の立場から見ると、

発表とは場に差し出された象徴である。

そして場は、

その象徴に応答する。


◆ 2|なぜ場は揺れたのか

昨年の発表は、

少なくとも私自身にとっては、

西田哲学、

華厳、

象徴世界、

臨床心理学、

歴史的身体

を結ぶ試みであった。

それは、

言葉の分析だけではなく、

言葉が生まれてくる場所そのものを問う試みでもあった。

このとき場が揺れるのは自然である。

なぜなら、

象徴はいつも

既存の限定を揺るがすからである。


◆ 3|オンライン化と精鋭化

近年の動きを見ていると、

オンライン化、

資料の整備、

検索可能性の向上、

議論の精密化が進んでいるように見える。

これは間違いなく重要なことである。

しかし象徴技法の視点から見ると、

それだけでは十分ではない。

なぜなら、

言葉は整理できても、

言葉が生まれる場所そのものは、

整理だけでは見えてこないからである。


◆ 4|アーカイブというもう一つの歴史

興味深いことに、

発表は終わったが、

映像は残っている。

録音も残っている。

つまり、

発表は消えていない。

むしろ、

歴史的世界の中で

別の時間を生き始めている。

論文として掲載されることだけが

思想の生ではない。

アーカイブされた映像は、

未来の読者、

未来の研究者、

未来の学会に向かって開かれている。

ある意味では、

紙の論文以上に

「そのときの場」

を保存している。


◆ 5|置いていかれたのか、それとも先に進んだのか

発表のあと、

しばしば

「置いていかれた」

という感覚が生じる。

しかし、

象徴技法の視点から見ると、

問題はそこではない。

魂の位置が変わると、

今までいた席が見えなくなる。

今年の年次大会で私はあることに気づいた。

夢の映画館で見た

「最前列中央の席」

が、

ある人物の位置と重なっていたのである。

その席では、

もう世界の半分しか見えなかった。

だから別の席を探す必要があった。

これは否定ではない。

継承とは、

同じ席に座ることではなく、

同じ海を見ながら別の場所を見つけることだからである。


◆ 6|歴史的世界は自己限定を続ける

西田哲学会も、

西田哲学館も、

研究者たちも、

そして私自身も、

歴史的世界の内部にある。

だから誰も完成していない。

歴史的世界は、

未来の事実によって

絶えず自己限定し続ける。

重要なのは、

その運動を止めないことである。

象徴技法が見ているのは、

その運動そのものなのである。


◆ まとめ

昨年の発表は、

一つの研究成果である前に、

一つの出来事だった。

その出来事は、

場を揺らし、

問いを残し、

歴史的世界の中に組み込まれた。

そして今、

その意味は採否ではなく、

未来の自己限定の中で

少しずつ立ち上がりつつある。

象徴は常にそう働く。

まず揺れが起こり、

意味はあとから現れるのである

華厳の海 花と水より 未来ひらく From the flower and the water of Kegon’s sea, the future unfolds.

第10章 華厳と象徴

相互浸透の臨床

象徴技法において重要なのは、

象徴を解釈することではない。

象徴がどのような運動を始めているのかを観ることである。

そのとき手掛かりになるのが、

華厳の相互浸透

という考え方である。


◆ 1|華厳は説明の宗教ではない

子ども向けの華厳経の解説書に、

わからなくても読むこと
身体で読むこと

と書かれていた。

私は長い間、この意味が十分には分からなかった。

しかし象徴技法を考えるようになり、

ようやく腑に落ちるようになった。

華厳は理解されるために書かれたのではない。

魂の位置を変えるために語られたのである。

だから説明よりも先に身体が動く。

身体が動いてから、 あとで理解が追いつく。

これは心理療法で起きる変化と同じである。


◆ 2|華厳の海とは何か

華厳では、

世界は独立した物の集まりとして存在するのではない。

一つのものがすべてにつながり、

すべてが一つのものの中に映っている。

そのため、

世界は集合ではなく、

関係そのものとして存在する。

私はこれを、

華厳の海

と呼んでいる。

海は、

境界を固定しない。

波が立ち、

崩れ、

また新しい波になる。

華厳の世界も同じである。

存在そのものが相互浸透し続けている。


◆ 3|なぜジブリに海が現れるのか

私がジブリ作品を華厳経との関連から読んできた理由もここにある。

『崖の上のポニョ』は、

単なる海の物語ではない。

海が世界を飲み込み、

境界が解体され、

新しい世界が現れる。

これは華厳の相互浸透そのものである。

そして、

百尺竿頭進一歩

という禅語とも響き合う。

崖の上とは、

世界の端であり、

同時に未来の入口である。

ポニョは海から現れる。

つまり未来は海からやって来る。


◆ 4|相互浸透は心理療法の中でも起きている

心理療法の変化は、

単に患者の内側だけで起こるのではない。

患者の夢が変わる。

身体感覚が変わる。

人間関係の見え方が変わる。

世界の色合いが変わる。

すると、

過去の意味まで変わり始める。

一つの変化が、

全体へ波及する。

これは華厳でいう相互浸透の構造である。


◆ 5|象徴は相互浸透の入口である

夢に現れた水。

花。

子ども。

海。

崖。

これらは単独の意味を持つのではない。

相互に響き合いながら、

一つの世界を形成する。

象徴とは、

意味の記号ではない。

相互浸透が始まる入口である。

だから象徴を説明して終わるのではなく、

象徴が何と何を結び始めているのかを観察する必要がある。


◆ 6|西田哲学との接続

西田幾多郎は、

華厳や天台の論理に近いものを探していたと述べている。

そして場所論は、

主体と客体の関係を超えて、

世界がどのように自己限定していくかを考える試みだった。

華厳は、

宗教的身体性の側からそれを語った。

西田は、

哲学の側からそれを語った。

象徴技法は、

臨床心理学の側からそれを語ろうとする。

三者は異なる言語を用いているが、

見ているものは同じである。


◆ まとめ

華厳とは、

世界の相互浸透についての教えである。

象徴技法とは、

その相互浸透が魂の位置の変化として現れることを扱う方法論である。

夢も、

海も、

花も、

水も、

未来の場所も、

本来は別々のものではない。

それらは華厳の海の中で互いに映し合っている。

心理療法とは、

その海にもう一度触れる営みなのかもしれない。

水は未来 陰陽めぐりて 魂生る Water is the future; through the turning of yin and yang, the soul comes into being.

第9章 陰陽五行と象徴技法

東洋の生成論はなぜ臨床に生きるのか

象徴技法は未来の事実によって現在を限定する運動を扱う。

この構造を、東洋思想は古くから別の言葉で語ってきた。

それが陰陽五行である。

陰陽五行は占いではない。

自然観察から生まれた生成論である。

木は伸びる。

火は燃え上がる。

土は受け容れる。

金は形を与える。

水は流れ、蓄える。

これは単なる自然現象ではない。

人間の魂もまた、 同じ生成の運動を生きている。


◆ 1|五行とは未来への運動である

五行は固定的性格分類ではない。

むしろ、

変化の構造

を表している。

木は火を生み、 火は土を生み、 土は金を生み、 金は水を生み、 水は木を生む。

重要なのは、

どれかになることではなく、

生成し続けること

なのである。

これは西田哲学の自己限定と近い。

自己は固定的実体ではなく、

限定しながら次へ向かう運動だからである。


◆ 2|臨床とは五行の停滞を再び流れに戻すことである

魂が苦しくなるとき、

多くの場合、

生成の流れが止まっている。

PTSDもそうである。

CPTSDもそうである。

離人症もそうである。

時間が止まる。

未来が消える。

象徴が死ぬ。

水が流れなくなる。

臨床が行うのは、

この停止した流れを再開することである。

これは五行的に言えば、

生剋のバランスを回復することとも言える。


◆ 3|水は未来の記憶である

この連載で繰り返し現れたのは水だった。

ウンディーネ。

華厳の海。

ポニョの海。

スイトピーの水挿し。

通奏低音が静まった水面。

なぜ水なのか。

五行で水は、 単なる液体ではない。

深さであり、

可能性であり、

未来である。

だから魂は、 未来へ向かう時、

まず水の象徴を夢に現す。


◆ 4|陰陽は対立ではなく生成である

現代人はしばしば、

陰陽を白黒の対立と考える。

しかし本来は逆である。

陰は陽を生み、

陽は陰を生む。

互いが互いの未来になっている。

これはまさに

未来の事実が現在を限定する

という構造である。

ケ・セラ・セラの直観も、

ここに通じる。


◆ 5|東洋の生成論は令和の臨床哲学と出会う

河合隼雄は、

ユング心理学は日本的に翻訳されなければならない

と述べた。

西田幾多郎は、

華厳や天台を含む東洋の論理を探し続けた。

そして大橋良介は、

事実が事実を限定するという現象学的課題を示した。

これらは別々の問いではない。

東洋の生成論を、 臨床と哲学の双方から捉え直そうとする同じ試みなのである。

象徴技法は、その交点に立っている。


◆ まとめ

陰陽五行とは未来への生成論である。

象徴技法とは魂の生成論である。

両者は異なる言語で、

同じ運動を語っている。

魂は固定された実体ではない。

未来へ向かいながら、 現在を限定し続ける生成の運動そのものなのである。

夢の水面 未来の視座が 波となる Upon the dream’s water, a future vantage rises as a wave.

 

第8章 夢の象徴論

未来の視座はいかにして生まれるか

夢は無意識の表現である。

こう言われることが多い。

しかし夢を単に「無意識の表現」と考えるだけでは、 夢がもつ能動性を見逃してしまう。

夢は、現在を説明するためだけに現れるのではない。

むしろ夢は、

未来の視座を準備するために現れる。

夢は未来の場所から現在へ向かって届く象徴なのである。


◆ 1|夢は未来からの自己限定である

西田哲学の自己限定を、

夢ほど具体的に示す現象はない。

夢の中では、

まだ起きていない未来が、

すでに現在を限定している。

夢は予言ではない。

しかし、

未来の事実が現在の魂に触れている。

だから夢は、

現在の理解では説明できない。

夢が先に知っていて、

自我があとから理解するのである。


◆ 2|映画館の夢──旧い視座の終わり

映画館の夢では、

あなたは最前列中央の席へ向かった。

それは現実でも選ぶ場所だった。

しかし、

その席ではスクリーンの半分しか見えない。

そこで別の席を探そうとする。

この夢は極めて象徴的である。

最前列とは、

これまでの視座である。

長年使ってきた魂の位置である。

しかしその場所では、

世界の半分しか見えなくなった。

だから魂は、

新しい場所を探し始めた。

問題は、

新しい席がまだ見つからないことである。

これは現在の課題でもある。

だが夢は不安を表しているのではない。

むしろ、

新しい視座が必要になったことを知らせている。


◆ 3|スイトピーの夢──未来の関係性の誕生

もう一つの夢では、

知らない男の子と女の子が現れた。

子どもは未来の象徴である。

しかも、

その関係は敵対ではなく親密だった。

さらに、

水挿しのスイトピーが登場する。

花は華厳の象徴だった。

水は無の質感の象徴だった。

つまり、

花と水が同時に現れている。

華厳経が

世界の相互浸透

を象徴するなら、

この夢は、

魂が未来の関係性を準備している夢なのである。


◆ 4|夢は新しい視座を身体に教える

ここが重要である。

夢は説明しない。

夢は講義しない。

夢は定義を書かない。

夢は、

身体に体験させる。

華厳経が

わからなくても読むこと
身体で読むこと

と言うのは、

まさに夢の働きと同じである。

夢は理解を要求しない。

夢は身体を変える。

身体が変われば、

魂の位置が変わる。

魂の位置が変われば、

新しい視座が生まれる。


◆ 5|夢は象徴技法の最も純粋な姿である

象徴技法とは、

魂の位置を未来へ動かす技法であった。

夢は、

その自然発生版である。

水

花

海

崖

子ども

光

影

これらはすべて、

夢の中では自然に現れる。

夢は、

治療者よりも先に働く。

理論よりも先に働く。

未来の場所は、

まず夢の中で開く。


◆ 6|夢は歴史的世界の深層ともつながっている

夢は個人的なものではない。

華厳

百尺竿頭

ウンディーネ

ポニョ

陰陽五行

これらはすべて、

個人を超えた象徴である。

夢がこれらを運んでくるとき、

魂は歴史的世界の深層と接続される。

その意味で夢は、

個人的出来事ではなく、

歴史的世界の自己限定が身体に現れた現象なのである。


◆ まとめ

夢は、

未来の場所から届く象徴である。

夢は、

未来の事実によって現在を限定し直し、

魂の位置を移動させ、

新しい視座を生み出す。

夢は説明しない。

夢は身体に触れる。

そして身体を通して、

未来の場所を開く。

夢とは、

魂が未来を先に見ている現象なのである。

魂の位置 未来のひかりが 夢を変う When the soul finds a new place, the light of the future begins to reshape its dreams.

第7章 象徴技法の臨床的応用

魂の未来の場所で起こる変化

心理療法において最も説明が難しいのは、

患者がなぜ変わったのか

である。

本人も説明できない。

治療者も説明できない。

しかし確かに変化している。

象徴技法が扱うのは、 まさにこの部分である。

変化とは、

知識の増加ではなく、

魂の位置の移動

だからである。


◆ 1|症状の改善ではなく「世界の見え方」が変わる

象徴が働き始めると、

まず症状が消えるのではない。

先に起こるのは、

世界の見え方の変化である。

同じ風景が違って見える。

同じ出来事が違う意味を持つ。

同じ人間関係が違う位置に見える。

患者は、

「何かが変わった」

と言う。

しかし、

何が変わったか説明できない。

これは、

魂の位置が変わったためである。


◆ 2|通奏低音が弱まる

CPTSDでは、

心の底で通奏低音が鳴り続けている。

常に警戒している。

常に何かに備えている。

常に未来の破局を予想している。

この状態では、

記号は読めても、

意味が身体に入らない。

ところが、

象徴が働くと、

まず通奏低音が弱まる。

静かになる。

世界が敵ではなくなる。

すると身体は、

はじめて「読む」ことができる。

華厳経が

わからなくても読むこと
身体で読むこと

と言うのは、

この状態を指しているのではないだろうか。


◆ 3|夢が変化する

魂の位置が変わると、

夢が変わる。

これは非常に重要な徴候である。

夢は、

現在の自我ではなく、

魂の位置を映す。

私自身、

映画館の夢を見た。

最前列の真ん中という、

いつも選ぶ場所では、

スクリーンが半分しか見えない。

だから別の席を探した。

これは、

旧来の視座が機能しなくなり、

新しい視座が必要になったことを示していた。

夢は、

魂が未来の場所へ移動する予告なのである。


◆ 4|他者との関係が変わる

象徴が働くと、

他者との関係も変わる。

議論で勝つことよりも、

相手の位置が見えることが増える。

敵と味方という二項対立が弱まる。

「なぜ、そうなったのか」

が見えるようになる。

これは、

魂の位置が

歴史的世界の深層へ移動したためである。


◆ 5|過去が変わる

もっと不思議なことが起こる。

過去が変わる。

事実は変わらない。

しかし意味が変わる。

西田の自己限定とは、

おそらくこのことである。

未来の事実によって、

現在が限定され直される。

すると、

過去までも新しく見えてくる。

臨床で起きる本当の変化は、

過去の記憶の修正ではなく、

過去の意味の再生成なのである。


◆ 6|生き方そのものが変わる

最終的に変わるのは、

症状ではない。

人格でもない。

世界観ですらない。

変わるのは、

生きる方向である。

これが、

ケ・セラ・セラの本当の意味だと思う。

「なるようになる」

ではない。

未来の事実が、

静かに現在を導いている。

だから、

魂はその方向へ歩き始める。


◆ まとめ

象徴技法によって起こる変化とは、

  • 症状の改善
  • 認知の修正
  • 性格の変化

ではない。

それは、

魂の位置の変化

である。

魂の位置が変わると、

  • 通奏低音が弱まり
  • 夢が変わり
  • 他者との関係が変わり
  • 過去の意味が変わり
  • 生きる方向が変わる

象徴技法とは、

魂を未来の場所へ導く技法である。

深層の臨床・閑話休題2

臨床の深層・閑話休題

見性とは現実から立ち上がってくることである

コメント欄でのやり取りを続けながら、ひとつ重要なことに気づいた。

私は当初、相手のコメントへの返答を書いているつもりだった。

しかし後から振り返ると、同時期に別の人へ書いていたコメントも含め、それらは同じ課題に対する私自身への応答でもあった。

相手の問いに答えているつもりが、自分自身も答えさせられていたのである。

これは転移や逆転移という臨床的な言葉でも説明できる。

しかしそれ以上に、禅でいう見性に近いものではないかと思い始めている。

見性というと、何か特別な悟りの体験を想像しやすい。

だが、今回私に起きたことはもっと地味で現実的な出来事だった。

コメントを書く。

返信を読む。

考える。

別の人に返信する。

昔のドラマを見直す。

年次大会で聞いた話を思い出す。

すると、それまで別々だった出来事が、ある瞬間につながり始める。

私が無理に結びつけたのではない。

現実の側から立ち上がってきたのである。


あるコメンターは、

「象徴が動くための時間そのものが止まっているような感覚です」

と書かれていた。

その言葉を読んだとき、私は象徴化の失敗というよりも、

未来が現在を呼ぶ運動そのものが停止している状態を考えた。

そして、それに対して森田療法の「あるがまま」とユングの態度を重ねながら考えていた。

すると一つのことが見えてきた。

あるがままを否定しないことと、

あるがままに呑み込まれることは違う。

ユングは、あるがままを認めながらも、それと向き合う主体の態度を重視した。


日本の禅僧から

「集合的無意識は超えられるのか」

と問われたユングは、しばらく逡巡した後、

「ヤー」

と答えたという。

私は最近、この逸話の意味が少し違って見えている。

ユングが禅を理解したのではない。

その問いを受け取ったユング自身が動かされたのである。

つまり、その時の出来事はユングによる回答ではなく、ユングにも起きた見性だったのではないか。


コメント欄で起きていることも同じである。

私が誰かに答えているのではない。

相手の問いによって私も動かされている。

そして、その運動のなかで新しい理解が立ち上がる。

西田の言う行為的直観も、おそらくこういうものなのだろう。

まず考えるのではない。

まず現実が動く。

その運動のなかから理解が立ち上がる。

見性とは、頭の中でつくるものではなく、現実から立ち上がってくるものなのである。

臨床の深層・閑話休題 ~読み継げば 場の立ち上がる 秋の風 

A Living Place

My thoughts did not begin from theory.

A comment led to another comment.
A memory led me back to an old drama.
An old scene opened a new understanding.

I was not simply thinking about philosophy.
Rather, philosophy was happening through real encounters, memories, and responses.

A living place emerged between experience and reflection.

臨床の深層・閑話休題

コメント欄のなかで動く歴史的身体

最近、自分でも面白い経験をしている。

西田哲学会の年次大会に参加し、その余韻のなかで学会の論文見本や現在の学会状況について考えていた。最初は単純な違和感だった。見本論文は整っている。論理もきれいだ。しかし何かが足りない。

そのとき思い出したのが、大会で若い哲学館員が紹介した西田幾多郎の読書法だった。

西田は本を読むとき、指に唾をつけながらページをめくり、余白に激しく書き込み、時には怒って読むのをやめたという。

論理の説明ではない。

読みながら身体が動いている。

その話が妙に心に残った。

すると、それまで単なる論文見本だったものが違って見え始めた。

なるほど、この文章には身体がいないのだ。

考えられたことは書かれている。

しかし、考える前に動いていた身体の痕跡がない。


そこから思索は予想外の方向へ進んだ。

私はコメント返しを書いた。

そして時間をおいて、自分自身のコメントにさらに返信した。

すると今度は、まったく別のところから連想が現れた。

十年以上前のドラマの冒頭を見直したのである。

すると、それまで見えていなかったものが見えてきた。

主人公は単なる優秀な弁護士ではなかった。

庶民的な生活世界のなかから現れた、時代の最先端を生きる実務家として描かれていた。

さらに見ているうちに、DVやPTSDをめぐる問題、個性化の問題、自分自身が経験した出来事などが次々と結びつき始めた。

理論を適用したわけではない。

身体が動き、その結果として思考がついてきたのである。


面白いことに、この流れは西田の「行為的直観」とよく似ている。

まず理解があるのではない。

まず動く。

動いた結果として見えてくる。

考えてから経験するのではなく、経験したものによって考えが変化する。

それはピアジェの言う感覚運動期にも似ている。

乳幼児はまず触る。

動く。

失敗する。

そして世界を組み立てる。

哲学も本来そうだったのかもしれない。


さらに考えているうちに、「象徴とは未来の事実が現在の事実を限定する運動である」という自分の考えが、ここでも生きていることに気づいた。

コメントを書く。

返事が来る。

思わぬ連想が起きる。

昔見たドラマを見直す。

そこで新しい理解が生まれる。

未来の理解が、まだ理解していない現在の自分を引っぱっている。

だから私は考えているのではなく、考えさせられている。

動いているのではなく、動かされている。


禅宗でいう「作家」という言葉も、最近になって少し分かった気がする。

小説を書く人という意味ではない。

自らの生を作り出す人である。

もっと正確に言えば、自分のなかに新しい場を生成する人である。

コメントを書く。

誰かの言葉を読む。

違和感を抱く。

反論したくなる。

昔の作品を見直す。

そこで別の意味が現れる。

そうやって場が生成する。

今起きていることは、単なる哲学研究ではない。

リアルな出来事のなかで、歴史的身体が動き、その結果として理論が少しずつ深まっていく過程なのだと思う。

だから最近の私は、哲学を頭で考えているというよりも、コメント欄や日常の出来事を通して、哲学に考えさせられているのである。