流注の臨床
第3章 通奏低音の臨床
◆ 1|なぜ同じことが繰り返されるのか
臨床にいると不思議なことに気づく。
患者は同じ話を繰り返す。
同じ場面を思い出す。
同じ人物について語る。
同じ苦しみに戻る。
しかし本当に繰り返されているのは出来事ではない。
その下を流れている何かである。
◆ 2|通奏低音とは何か
バロック音楽でいう通奏低音は、
曲の表面に現れる旋律ではなく、
全体を支える背景の音である。
臨床で見える苦しみもよく似ている。
怒りの下にあるもの。
不安の下にあるもの。
依存の下にあるもの。
症状そのものではなく、
その症状を支えている背景音。
それが通奏低音である。
◆ 3|PTSDと通奏低音
PTSDでは、
注意が危険へ流れ続ける。
身体は警戒し続ける。
夢は侵襲し続ける。
そのたびに表面の症状は変わる。
しかし下では同じ音が鳴っている。
だから症状を理解しても、
通奏低音が続く限り、
流れそのものは変わらない。
◆ 4|CPTSDは人生全体が共鳴する
CPTSDではさらに深い。
特定の出来事ではなく、
生き方全体に響いている。
本を読む。
人と話す。
未来を考える。
すると背景で低い音が鳴る。
文字は読める。
意味も追える。
しかし身体が受け取れない。
なぜなら、
通奏低音が別の場所へ注意を流し続けているからである。
◆ 5|アジャセ王の通奏低音
古沢平作の偉大さは、
コンプレックスそのものではなく、
その下に流れている音を聞いたことにある。
父。
母。
憎しみ。
後悔。
赦し。
これらは旋律である。
しかし下では、
もっと古い苦悩が鳴っている。
それは父母以前の問いであり、
存在への不安であり、
「私はどこから来たのか」という根源的な問いである。
アジャセ王は、
その通奏低音を身体で生きていた。
◆ 6|西田哲学との接続
ここで私はふと、
西田幾多郎とウィリアム・ジェイムズの関係を思う。
ジェイムズは意識の流れを発見した。
しかし流注は、
単なる stream ではない。
流れながら、
矛盾しながら、
自己を限定しながら、
深まっていく。
そこには弁証法的運動がある。
だから流注は、
意識の流れよりもむしろ、
歴史的世界の生成に近い。
大橋良介の
「事実が事実を限定する」
という言葉も、
このあたりで新しい意味を持ち始める。
◆ 7|治療とは通奏低音を消すことではない
ここが重要である。
通奏低音は敵ではない。
消すべき騒音でもない。
むしろ、
その人の人生が流れてきた川の音である。
臨床が行うのは、
音を消すことではなく、
その音がどこから来て、
どこへ向かおうとしているのかを聴くことである。
流注の臨床は、
症状ではなく、
通奏低音の行方をたずねる。
◆ まとめ
通奏低音とは、
魂の深層を流れ続ける背景音である。
コンプレックスは渦だった。
通奏低音は、その渦を生み出している川の流れである。
そして臨床とは、
その流れを止めることではなく、
どこへ向かっているのかを共に見守る営みなのである。

