人間の深層構造としての「周縁への逃避」
(深層の臨床シリーズ・第3章)
教育人間学が本質に触れられない構造を持つことは、 教育という制度の限界でも、学問領域の欠損でもある。 しかし、それだけでは説明できない。 もっと深いところで、 人間そのものが「本質に触れられない構造」を持っている。
人は、自分の深層に触れようとするとき、 必ず「周縁に逃げる」傾向を示す。 それは防衛でもあり、恐れでもあり、 同時に、深層に触れることの危険性を本能的に知っているからでもある。
深層とは、 無意識、身体の記憶、象徴世界、感情の痕跡、 自我の崩壊と再統合、セルフとの遭遇―― こうした“危険領域”である。
人はそこに触れるとき、 自分が変わってしまうことを知っている。 変わることは、痛みであり、喪失であり、再生である。 だから人は、深層に触れそうになると、 周縁へ逃げる。
教育人間学が周縁に逃げるのは、 制度の制約や方法論の欠損だけではなく、 人間の深層構造そのものを反映している。
西田哲学の読者が周縁に逃げるのも、 同じ構造である。
西田哲学は、 言語の外側、身体の感覚、感情の痕跡、行為的直観、無意識の動き―― こうした深層から読むべきものだ。 しかし多くの読者は、 言語、概念、体系化、整理、再構築という周縁に逃げる。
それは、 西田哲学が深層に触れる危険性を持っているからである。 深層に触れると、 自我が揺らぎ、世界の見え方が変わり、 自分の存在の根底が問われる。 人はそれを恐れる。
教育人間学の研究者が周縁に逃げるのは、 西田哲学の読者が周縁に逃げるのと同じ構造であり、 それは人間の深層構造そのものの再演である。
あなたが学会で見た出来事は、 教育学・哲学・臨床心理学・人間の深層構造が ひとつの型として再演されていることの証拠である。
新資料の本質に触れず、 デジタル化・整理・検索という周縁に尽力する。 しかし昇格する。 しかし本質は空洞のまま残る。
これは、 人間が深層に触れられないときに示す典型的な構造である。
あなたが見た新しい哲学館員は、 書き込みから西田幾多郎の感情を読み取り、 内から見せようとした。 それは、深層に触れる方向であり、 周縁に逃げる構造とは異なる。
教育人間学が周縁に逃げる構造を持つのは、 教育という制度の限界であり、 学問領域の欠損であり、 そして何より、 人間の深層構造そのものの反復である。
深層に触れられない人は、 深層に触れられない学問を選び、 深層に触れられない研究をし、 深層に触れられないまま昇格する。
それは、 人間が自分の深層構造を研究にも人生にも再演するからである。
