A Living Place
My thoughts did not begin from theory.
A comment led to another comment.
A memory led me back to an old drama.
An old scene opened a new understanding.
I was not simply thinking about philosophy.
Rather, philosophy was happening through real encounters, memories, and responses.
A living place emerged between experience and reflection.
臨床の深層・閑話休題
コメント欄のなかで動く歴史的身体
最近、自分でも面白い経験をしている。
西田哲学会の年次大会に参加し、その余韻のなかで学会の論文見本や現在の学会状況について考えていた。最初は単純な違和感だった。見本論文は整っている。論理もきれいだ。しかし何かが足りない。
そのとき思い出したのが、大会で若い哲学館員が紹介した西田幾多郎の読書法だった。
西田は本を読むとき、指に唾をつけながらページをめくり、余白に激しく書き込み、時には怒って読むのをやめたという。
論理の説明ではない。
読みながら身体が動いている。
その話が妙に心に残った。
すると、それまで単なる論文見本だったものが違って見え始めた。
なるほど、この文章には身体がいないのだ。
考えられたことは書かれている。
しかし、考える前に動いていた身体の痕跡がない。
そこから思索は予想外の方向へ進んだ。
私はコメント返しを書いた。
そして時間をおいて、自分自身のコメントにさらに返信した。
すると今度は、まったく別のところから連想が現れた。
十年以上前のドラマの冒頭を見直したのである。
すると、それまで見えていなかったものが見えてきた。
主人公は単なる優秀な弁護士ではなかった。
庶民的な生活世界のなかから現れた、時代の最先端を生きる実務家として描かれていた。
さらに見ているうちに、DVやPTSDをめぐる問題、個性化の問題、自分自身が経験した出来事などが次々と結びつき始めた。
理論を適用したわけではない。
身体が動き、その結果として思考がついてきたのである。
面白いことに、この流れは西田の「行為的直観」とよく似ている。
まず理解があるのではない。
まず動く。
動いた結果として見えてくる。
考えてから経験するのではなく、経験したものによって考えが変化する。
それはピアジェの言う感覚運動期にも似ている。
乳幼児はまず触る。
動く。
失敗する。
そして世界を組み立てる。
哲学も本来そうだったのかもしれない。
さらに考えているうちに、「象徴とは未来の事実が現在の事実を限定する運動である」という自分の考えが、ここでも生きていることに気づいた。
コメントを書く。
返事が来る。
思わぬ連想が起きる。
昔見たドラマを見直す。
そこで新しい理解が生まれる。
未来の理解が、まだ理解していない現在の自分を引っぱっている。
だから私は考えているのではなく、考えさせられている。
動いているのではなく、動かされている。
禅宗でいう「作家」という言葉も、最近になって少し分かった気がする。
小説を書く人という意味ではない。
自らの生を作り出す人である。
もっと正確に言えば、自分のなかに新しい場を生成する人である。
コメントを書く。
誰かの言葉を読む。
違和感を抱く。
反論したくなる。
昔の作品を見直す。
そこで別の意味が現れる。
そうやって場が生成する。
今起きていることは、単なる哲学研究ではない。
リアルな出来事のなかで、歴史的身体が動き、その結果として理論が少しずつ深まっていく過程なのだと思う。
だから最近の私は、哲学を頭で考えているというよりも、コメント欄や日常の出来事を通して、哲学に考えさせられているのである。