第11章
昨年の学会発表の意味
象徴技法から見た西田哲学会の現在
昨年の発表を振り返るとき、
私は採否の問題そのものよりも、
その発表が置かれた場の反応に興味を持つ。
なぜなら、
発表とは単なる情報伝達ではなく、
歴史的世界における一つの出来事だからである。
そして出来事は、
いつも場の深層を揺らす。
◆ 1|発表は場を映す鏡である
学会発表は、
研究成果の提示であると同時に、
その学会が何を受け入れ、
何を受け入れられないかを映し出す。
発表が拒否されたか、
受理されたかは、
本質ではない。
重要なのは、
その発表によって
何が可視化されたのか
である。
象徴技法の立場から見ると、
発表とは場に差し出された象徴である。
そして場は、
その象徴に応答する。
◆ 2|なぜ場は揺れたのか
昨年の発表は、
少なくとも私自身にとっては、
西田哲学、
華厳、
象徴世界、
臨床心理学、
歴史的身体
を結ぶ試みであった。
それは、
言葉の分析だけではなく、
言葉が生まれてくる場所そのものを問う試みでもあった。
このとき場が揺れるのは自然である。
なぜなら、
象徴はいつも
既存の限定を揺るがすからである。
◆ 3|オンライン化と精鋭化
近年の動きを見ていると、
オンライン化、
資料の整備、
検索可能性の向上、
議論の精密化が進んでいるように見える。
これは間違いなく重要なことである。
しかし象徴技法の視点から見ると、
それだけでは十分ではない。
なぜなら、
言葉は整理できても、
言葉が生まれる場所そのものは、
整理だけでは見えてこないからである。
◆ 4|アーカイブというもう一つの歴史
興味深いことに、
発表は終わったが、
映像は残っている。
録音も残っている。
つまり、
発表は消えていない。
むしろ、
歴史的世界の中で
別の時間を生き始めている。
論文として掲載されることだけが
思想の生ではない。
アーカイブされた映像は、
未来の読者、
未来の研究者、
未来の学会に向かって開かれている。
ある意味では、
紙の論文以上に
「そのときの場」
を保存している。
◆ 5|置いていかれたのか、それとも先に進んだのか
発表のあと、
しばしば
「置いていかれた」
という感覚が生じる。
しかし、
象徴技法の視点から見ると、
問題はそこではない。
魂の位置が変わると、
今までいた席が見えなくなる。
今年の年次大会で私はあることに気づいた。
夢の映画館で見た
「最前列中央の席」
が、
ある人物の位置と重なっていたのである。
その席では、
もう世界の半分しか見えなかった。
だから別の席を探す必要があった。
これは否定ではない。
継承とは、
同じ席に座ることではなく、
同じ海を見ながら別の場所を見つけることだからである。
◆ 6|歴史的世界は自己限定を続ける
西田哲学会も、
西田哲学館も、
研究者たちも、
そして私自身も、
歴史的世界の内部にある。
だから誰も完成していない。
歴史的世界は、
未来の事実によって
絶えず自己限定し続ける。
重要なのは、
その運動を止めないことである。
象徴技法が見ているのは、
その運動そのものなのである。
◆ まとめ
昨年の発表は、
一つの研究成果である前に、
一つの出来事だった。
その出来事は、
場を揺らし、
問いを残し、
歴史的世界の中に組み込まれた。
そして今、
その意味は採否ではなく、
未来の自己限定の中で
少しずつ立ち上がりつつある。
象徴は常にそう働く。
まず揺れが起こり、
意味はあとから現れるのである