流注の臨床
第7章 父でも母でもない場所
フロイトのエディプス・コンプレックスは、
父と母の間に起こる葛藤を中心にしている。
子どもは父を競争相手として見なし、
母への欲求を抱く。
その葛藤が人格形成の基礎になる。
近代心理学においてこれは大きな発見だった。
しかし古沢平作がアジャセ王に見たものは、
少し違っていた。
◆1|アジャセ王は誰を求めていたのか
アジャセ王は父に苦しんだ。
母にも苦しんだ。
憎しみにも苦しんだ。
罪悪感にも苦しんだ。
しかし彼の苦しみは、
単純に父か母かという問題には収まらない。
なぜなら、
父をめぐる感情も、
母をめぐる感情も、
絶えず変化し続けているからである。
流れているのである。
すると問題は、
父でも母でもなくなる。
◆2|流れはどこへ向かおうとしているのか
第1章で見たように、
注意は流れる。
第2章で見たように、
流れは渦を作る。
第3章で見たように、
その下には通奏低音がある。
では、
その流れはどこへ向かおうとしているのか。
この問いに向き合ったとき、
父や母は目的地ではなくなる。
むしろ途中の風景になる。
流れの本当の行き先は、
もっと深い場所にある。
◆3|生まれる前の問題
古沢平作のアジャセ・コンプレックスが独特なのは、
苦しみの起源を単純な家族関係に置かなかったことである。
父が悪い。
母が悪い。
そういう話ではない。
もっと根の深い不安が見えていた。
それは、
「私はなぜここにいるのか」
という問いである。
あるいは、
「私はどこから来たのか」
という問いである。
そしてさらに言えば、
生まれる以前から続いているような問いである。
◆4|存在への問いとしてのコンプレックス
フロイト的に見ると、
コンプレックスは関係の問題になる。
しかし流注として見ると、
コンプレックスは存在の問題になる。
誰を愛するのか。
誰を憎むのか。
という前に、
なぜ存在しているのか。
なぜ生きているのか。
という問いがある。
アジャセ王が苦しんだのも、
実はここだったのではないか。
◆5|西田哲学との接点
私はここで、
西田幾多郎の哲学との不思議な符合を感じる。
西田の問いもまた、
主体と客体の前にあるものを探していた。
自分と他人。
父と母。
善と悪。
そうした区別が生まれる以前の地点である。
それは純粋経験と呼ばれ、
場所と呼ばれた。
古沢平作が見たアジャセ王も、
実は同じ深さを見ていたのかもしれない。
◆6|流注は二元論を超えてゆく
父か母か。
自分か他人か。
善か悪か。
原因か結果か。
こうした二元論は、
流れを固定したときに生まれる。
しかし流注のなかでは、
それらは絶えず行き来する。
だから流注とは、
二元論を超える運動でもある。
そこでは答えよりも、
流れそのものの方が重要になる。
◆7|魂が帰ろうとしている場所
父でもない。
母でもない。
では何なのか。
流注の臨床から見えてくるのは、
魂が帰ろうとしている場所の存在である。
それは宗教で言えば救済かもしれない。
哲学で言えば場所かもしれない。
華厳で言えば海かもしれない。
臨床で言えば、
まだ言葉になる前の安心かもしれない。
名前は何でもよい。
重要なのは、
魂がそこへ向かって流れ続けていることである。
◆まとめ
アジャセ・コンプレックスは、
父と母の間の葛藤だけを語っているのではない。
それは、
魂がどこへ帰ろうとしているのかを語っている。
流注の臨床が見ようとしているのも、
原因ではなく、
流れの行方である。
そしてその行方は、
二元論の向こう側にある。
父でも母でもない場所へ向かって、
魂は今日も流れ続けているのである。