流注の臨床
第8章 注意の現象学
何が見え、何が見えなくなるのか
私たちは世界を見ていると思っている。
しかし本当に見ているのは、
世界そのものではない。
注意が照らしている部分である。
花を見る。
人を見る。
症状を見る。
夢を見る。
哲学を見る。
しかし注意が向いていないものは、
そこに存在していても見えない。
流注の臨床が問うのは、
何が存在するかではなく、
なぜそれが見えているのか
という問いである。
◆1|見えているものは注意が作っている
同じ世界を見ていても、
人によって見えるものは異なる。
恐れている人は危険を見る。
恋をしている人は希望を見る。
研究者は問題を見る。
臨床家は苦しみを見る。
世界が違うのではない。
まず、
注意の方向が違うのである。
そして注意の方向が、
その人の現実を形づくる。
◆2|注意は単なる認知機能ではない
心理学では注意を認知機能として扱うことが多い。
しかし臨床の場で見えてくる注意は、
もっと深い。
注意は感情と結びついている。
身体と結びついている。
記憶と結びついている。
夢と結びついている。
そして未来とも結びついている。
だから注意は、
単なる情報処理ではなく、
魂の流れそのものに属している。
◆3|PTSDは何を見ているのか
PTSDの人は、
注意が危険へ流れる。
すると世界は危険に満ちて見える。
これは誤認というより、
注意の現象学である。
見えているものが違うのである。
そして見えるものが変わると、
身体も変わる。
感情も変わる。
人生も変わる。
注意の流れは、
世界の現れ方そのものを変えてしまう。
◆4|CPTSDでは見えないものが増える
CPTSDになると、
危険だけが見えるのではない。
むしろ、
安全が見えなくなる。
希望が見えなくなる。
未来が見えなくなる。
ここで重要なのは、
未来が消えたのではないということである。
未来は存在している。
ただし注意がそこへ流れなくなっている。
その結果、
未来そのものが見えなくなる。
◆5|父母未生以前の問題
アジャセ・コンプレックスを考えるとき、
私は最近になって、
「父母未生以前」という言葉の意味が少し変わった。
父母が生まれる前の時代ではない。
父と母という区別が生まれる前である。
主体と客体。
善と悪。
自分と他人。
そうした区別が成立する以前の場所である。
すると、
注意そのものもそこで生まれている。
注意は父を選ぶ前に、
母を選ぶ前に、
すでに流れているのである。
◆6|花は見えるが水は見えない
花を見ているとき、
私たちは花を見る。
しかし花を支えている水は見ない。
同じように、
問題を見る。
症状を見る。
思想を見る。
しかしそれらを生み出している流れは見ない。
現象学とは、
隠れているものを探すことではない。
見えているものが、
どのように見えるようになっているのかを見ることである。
その意味で、
流注の臨床は注意の現象学である。
◆7|西田が見ようとしたもの
西田幾多郎は、
ジェイムズの意識の流れに触れた。
しかし西田が本当に見たかったのは、
流れそのものではなく、
流れが可能になる場所ではなかっただろうか。
見えるものではなく、
見えることそのもの。
経験の内容ではなく、
経験が成立する以前。
そこへ向かって、
純粋経験も、
場所論も、
行為的直観も展開していったように思われる。
◆まとめ
私たちは世界を見る。
しかし実際には、
注意が照らした世界を見ている。
流注の臨床が扱うのは、
見えているものではなく、
見えることそのものの流れである。
そして父母未生以前の場所とは、
その流れが生まれてくる場所なのである。
CPTSDの患者は「安全が見えない。」
この指摘に強く同意します。
CPTSDの本質は、危険に過敏になることだけではありません。安全を受け取る回路そのものが働かなくなるのだと…..どれほど穏やかな部屋にいても、どれほど優しい人が隣にいても、身体はそれを安全として登録しないのです。
そのため「もう大丈夫ですよ」という言葉は、多くの場合空を切ります。言葉が間違っているわけではありませんが、受け取る場所がまだ開いていないのです。それが虚無的シニフィアンにも通じているのだと….
だから回復とは、安全を与えることではなく、安全が見えるようになることなのだと思いました。注意が少しずつ危険の監視から離れ、目の前の穏やかさに留まれるようになること。その変化は劇的なものではありませんが、確かに起こるのだと。EG. 断薬後のサクラの花が「綺麗なピンク」と表現出来る様になる。服薬中は、ただの「ピンク」と色の名前を表現するだけだった。