流注の臨床
「誰が悪いのかを言いあてて、どうすればいいかを書きたてて、評論家やカウンセラーは米を買う」
「迷える子羊は、彼らほど賢い者はいないと思う」
「あとをついてさえ行けば、なんとかなると思う」
「見えることとそれができることは、別ものだよと米を買う」— 中島みゆき 『時刻表』
第10章 流注の倫理
私たちは倫理と聞くと、
何が正しいかを考える。
何をしてはいけないのかを考える。
社会の規範。
法律。
道徳。
責任。
義務。
しかし流注の臨床が出会う倫理は、
少し違う。
それはまず、
流れにどう向き合うか
という問いである。
◆1|善悪より先に悲哀がある
人はなぜ悲劇を好むのか。
アリストテレスはそのことを考えた。
悲劇には苦しみがある。
失敗がある。
喪失がある。
それでも人は悲劇を読む。
観る。
語り継ぐ。
なぜならそこには、
個人を超えた何かが現れているからである。
悲しみは単なる感情ではない。
魂を動かす流れである。
そしてその流れが、
哲学を始めさせる。

◆2|アジャセ王の問い
アジャセ王も、
善人か悪人かという問題ではない。
父を殺した。
王位を奪った。
その事実だけなら道徳的評価で終わる。
しかし仏教はそこで終わらなかった。
アジャセ王の内側で何が流れていたのかを見た。
その流れは、
憎しみから始まり、
罪悪感を通り、
救済へ向かう。
つまり倫理は、
善悪の判定ではなく、
流れの行方の中に生まれる。
◆3|善の研究の善
『善の研究』の善も、
道徳の善ではない。
よい子であることでもない。
規則に従うことでもない。
むしろ、
自己が自己として最もよく生きられる場所である。
ユングの自己実現も同じである。
自己とは完成したものではない。
生成し続けるものである。
善とは、
その生成に参加することなのである。

心理療法の目的は、苦しみに耐えられる強さと哲学的忍耐力を可能にさせること。
◆4|悪意のしるし
『君たちはどう生きるか』で、
主人公は自ら頭を傷つける。

そしてその傷は
「悪意のしるし」
と呼ばれる。
ここで重要なのは、
悪意が道徳的な悪ではないことである。
魂が流れを失ったとき、
苦しみは自分に向かう。
世界にも向かう。
その痕跡として傷が生まれる。
だから傷は、
症状であると同時に、
流れの言葉でもある。
◆5|ユングの石
ユングは、
いじめられたことが神経症の原因ではなかったと回想している。
原因は、
「もう学校へ行かなくてよい」
と思ったことだった。
ここには選択がある。
しかしその選択もまた、
突然現れたものではない。
一つの流れが、
一つの方向を選んだのである。
興味深いことに、
ユングの人生には石が繰り返し現れる。
そして『善の研究』の近年の表紙にも岩石が置かれている。

石とは何だろう。
流れに対する抵抗であり、
流れを変える契機であり、
流れを可視化する境界なのかもしれない。
◆6|流注の倫理とは何か
流注の倫理は、
正解を与えない。
善悪を裁かない。
むしろ問う。
いま、
魂はどこへ流れているのか。
その流れは、
閉じているのか。
開いているのか。
未来へ向かっているのか。
止まり続けているのか。
倫理とは、
流れの方向に対する責任である。
◆7|ケ・セラ・セラ
ここで再び、
ケ・セラ・セラが現れる。
「なるようになる」
という言葉は、
運命論ではない。
流れへの信頼である。
未来はまだ見えない。
それでも流れは続いている。
だから人は歩き続ける。
百尺竿頭進一歩。
その一歩を支えているのが、
流注の倫理なのである。
◆まとめ
流注の倫理は、
善悪の規則ではない。
魂の流れとともに生きる方法である。
悲哀によって始まり、
苦しみに導かれ、
未来によって限定される。
そしてその流れの中で、
人は少しずつ自己となってゆく。
倫理とは、
魂の流れに対する誠実さなのである。

枯山水の石庭は言葉の海(吉野裕子)
盲人のための箱庭
— 意識せずとも感じることができる
