流注の臨床
第11章 流注と象徴
流れそのものを見ることは難しい。
川を見ても、
見ているのは水面である。
風を見ても、
見ているのは揺れる木々である。
魂も同じである。
流注そのものは見えない。
しかし流注は、
絶えず何かを生み出している。
その現れが象徴である。
◆1|象徴は流れの足跡である
私たちはしばしば、
象徴を暗号のように考える。
海は何を意味するのか。
花は何を意味するのか。
子どもは何を意味するのか。
しかし流注の視点から見ると、
象徴は意味ではなく、
流れの痕跡
である。
雪解け水が地面に跡を残すように、
魂の流れは象徴を残す。
◆2|なぜ夢は象徴で語るのか
夢の流注を考えると分かる。
映画館の夢。
スイトピーの夢。
それらは説明ではなかった。
夢は講義をしない。
理論を述べない。
夢は風景を示す。
なぜか。
流れは概念になる前に働いているからである。
象徴は、
流れが最初に現れる姿なのである。
◆3|花は流れを見せる
私は最近になって、
華道の「未生流」という言葉の意味が少し分かるようになった。
未生とは、
まだ生じていないという意味ではない。
むしろ、
生じ続けている状態である。
花を飾ることは、
花を固定することではない。
生成する自然を顕すことなのである。


華厳経が「花を飾る経」であることも、
この地点で理解できる。
問題は花ではない。
花を咲かせている流れなのである。
◆4|華厳の海
華厳の海は興味深い。
海は象徴である。
しかし同時に、
あらゆる流れが帰着する場所でもある。
川も。
雨も。
地下水も。
海へ向かう。
夢もまた、
華厳の海へ向かう。
象徴が無数に現れながら、
互いに映し合い、
一つの流れを形成する。
華厳とは、
象徴の巨大なネットワークなのかもしれない。
◆5|善い王と悪い王
アジャセ王を考えていると、
善悪もまた象徴であることが見えてくる。
善い王。
悪い王。
これらは道徳的評価ではない。
魂の流れが可視化された物語である。
ドストエフスキーも、
ユングも、
宮崎駿も、
同じことをしている。
彼らは善悪を論じているのではない。
魂の流れを物語として示しているのである。
◆6|哲学もまた象徴である
私は連載を書きながら、
少し驚いている。
西田哲学もまた、
象徴として読めるからである。
純粋経験。
場所。
行為的直観。
歴史的世界。
これらは概念である。
しかし同時に、
流れを指し示す象徴でもある。
だから西田は、
定義を与えるというより、
見るべき方向を示している。
哲学は流注を記述する言葉になっている。
◆7|象徴は未来を運んでくる
象徴の最大の特徴は、
未来を含んでいることである。
夢の象徴はそうだった。
花もそうだった。
海もそうだった。
それらは過去を説明するだけではない。
まだ来ていない何かを運んでくる。
だから象徴は、
流れの終点ではない。
流れの先触れなのである。
◆まとめ
流注は見えない。
しかし象徴は見える。
だから私たちは象徴を通して流れを知る。
夢も、
花も、
海も、
物語も、
哲学も、
みな流注の現れである。
そして象徴は、
魂がどこへ向かおうとしているのかを、
静かに知らせてくれるのである。