あとがき
この連載を書き始めたとき、私は「象徴技法」というものを体系として持っていたわけではなかった。
むしろ、長年の臨床経験や夢、華厳経や西田哲学への関心、陰陽五行やジブリ作品への考察など、ばらばらに存在していたものを見つめ直していただけである。
ところが書き進めるうちに、不思議なことが起こった。
新しいことを学んだという感覚ではない。
むしろ、自分がすでに見ていたものが、少しずつ構造として姿を現してきたのである。
西田哲学についても同じだった。
理解できなかったものが理解できるようになったというより、
理解していたことが、よりシンプルに見えるようになった。
その結果として、難解に感じていた哲学が、感覚として腑に落ちるようになった。
それは重厚な理解というよりも、むしろ軽みである。
西田幾多郎が晩年に到達した透明さが、ほんの少しだけ理解できた気がする。
また、この連載を書いているあいだに、アメブロのアクセス数についても興味深い経験をした。
アクセス数は大きく変動し、ときには急増し、ときには激減した。
しかし後になって、それらの数字の多くが実態を反映したものではないことも分かった。
その一方で、「いいね」やコメント、ランキングには別の傾向が見られた。
そして連載完了の直後に、アメブロから
「人気な記事のようです。ブログトップに記事を固定して注目度をあげてみませんか?」
という案内が届いた。
対象になったのは、
「水は未来 陰陽めぐりて 魂生る」
という記事だった。
これは偶然なのかもしれない。
しかし連載全体を振り返ると、最後に残った象徴が「水」だったことは確かである。
水は、華厳の海として現れた。
ウンディーネとして現れた。
ポニョの海として現れた。
夢の中の水挿しとして現れた。
そして、未来へ向かう魂の運動の象徴として現れた。
連載は完了した。
しかし、水は流れ続けている。
私自身もまた、少し違う場所から世界を見始めているように感じる。
数日ほど時間をおいて、また次の問いに向かいたいと思う。