流れゆく 魂の先に 海ひらく As the soul flows onward, the sea opens before it.

 

流注の臨床

第12章 流れのなかの魂

長いあいだ私は、魂を何かとして考えていた。

心の奥にあるもの。

人格の中心にあるもの。

変わらない本質。

そのようなものとしてである。

しかし流注について考え続けるうちに、

少し違ったものが見えてきた。

魂は、

流れの背後にあるものではなく、

むしろ流れそのものなのではないか。


◆1|魂は固定された実体ではない

第1章で見たように、

注意は流れる。

第2章で見たように、

流れは渦をつくる。

第3章で見たように、

通奏低音は流れの深層を支えている。

第4章では、

症状が流れの言葉になった。

第5章では、

水が流れの原型として現れた。

そして第6章では、

夢が流れの水路であることを見た。

そうであるなら、

魂だけが静止しているという方が不自然である。


◆2|魂は関係のなかで生成する

華厳経の世界では、

何ひとつ単独では存在しない。

花は土から離れて存在しない。

水は海から離れて存在しない。

私たちもまた、

他者から離れて存在しない。

歴史から離れて存在しない。

すると魂とは、

孤立した実体ではなく、

関係のなかで生成し続ける運動として見えてくる。


◆3|流れているから自己でいられる

不思議なことだが、

人は変化するからこそ同じ人でいられる。

子どものころの自分。

若いころの自分。

今の自分。

どれも違う。

しかし同じでもある。

もし全く変化がなければ、

生きているとは言えない。

魂は変わる。

だからこそ自己であり続ける。

流れているからこそ、

自己は失われない。


◆4|行為的直観と流注

ここで私は、

西田の行為的直観を思う。

見ることと行うことは分かれていない。

知ることと生きることも分かれていない。

流注もまた同じである。

流れを外から観察しているのではない。

私たち自身が流れなのである。

だから魂は、

川を眺める人ではなく、

川そのものに近い。


◆5|未来によって生かされている

『象徴の技法』で見たように、

未来の事実は現在を限定する。

そして『流注の臨床』で見たように、

魂は未来へ向かって流れている。

すると人は、

過去によってのみ決まる存在ではなくなる。

未来によっても生かされている。

夢が未来を運ぶのも、

象徴が未来を知らせるのも、

魂そのものが未来へ開かれているからである。


◆6|海へ

川は海へ向かう。

個々の流れは、

より大きな流れに合流する。

華厳の海も、

観無量寿経の流注も、

西田の場所も、

どこかでこのイメージにつながっているように思える。

私たちはまだ海そのものを見ることはできない。

しかし流れを見れば、

海が存在することはわかる。

魂もまた、

何かより大きなものへ向かって流れている。


◆7|連載を終えて

『象徴の技法』を書き終えたとき、

私は魂の未来の場所について考えていた。

『流注の臨床』を書き終えようとしている今、

魂は場所だけではなく、

流れでもあることが見えてきた。

場所と流れ。

静けさと運動。

華厳の海と流注。

両者は対立していない。

海があるから流れがある。

流れがあるから海がある。

魂もまた同じである。


◆結び

私たちは症状を見る。

夢を見る。

歴史を見る。

学会を見る。

世界を見る。

しかし本当に見つめていたのは、

それらの背後を流れている一つの流れだったのかもしれない。

その流れは、

悲しみから始まることもある。

苦しみから始まることもある。

しかし流れは止まらない。

魂は流れ続ける。

そして流れ続けることによって、

少しずつ自らが向かう海を見出してゆくのである。

 

「流れは海を知っている」

了

fin

 

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