月別アーカイブ: 2010年2月

こどもの発達障碍だって

【おとなの発達障碍】が増えすぎていると書きました。
その際に、子どものとき【発達障碍】と診断された人のことに触れませんでしたが、
これとてよーく観察しなければなりません。
子どもの(本来の意味での)発達障碍も増えすぎです。
知恵おくれと呼んでいたものが、よくない言葉だとして【精神発達遅滞】と呼ばれるようになり、遅滞とは何だということで、【知的障碍者】と呼ぶようになりました。
知恵遅れは失礼だというセンスもいつの間にか消えようとしています。
昔はそういう子たちと自閉症などの情緒障碍とは区別(もちろん境界域の子どもはいました)していたものです。児童相談所でのグループセラピーでは、そもそも通うグループが違い、それぞれに応じた対応がありました。今はなんかごちゃまぜになっている感じがします。
そして虐待が増えていますね。
虐待されて平気な子はいません。
おとなの変質者も増えましたね(PTSDの可能性はありますが)。
いたずら(暴力というべきです)されて平気な子はいません。
いじめもふえましたね。
社会不安もありみんな余裕がありませんね。
ごはんがおなか一杯食べられない子もいます。
病気になっても保険証のない子もいます。
両親がいつ離婚するのか気が気でない子も多いです。
PTSDに罹患していないかどうかの判断はしなければなりません。
PTSDに罹患している場合は発達障碍とは言いません。
トラウマに焦点を当てれば、社会生活もお勉強もできるようになります。
知的障害者としてドリルをいくらさせてもだめです。
ショックのあまりよけい悪化し回復が遅れます。
もちろんなまけもの扱いをしてはいけません。

おとなの発達障碍ってどうですか

大人の発達障碍って診断されてる人が結構いますね。
なんか変ですよ。
その人でなくて、そういう診断する人がですが…。
なんか安直に診断してる気がする。
なんと言っても数が増えすぎている。
そして子どものときに発達障碍と診断されて大人になった人以外に
子どものとき普通で(あるいは成績とかよくて友達もいて)大人になってから発達障碍と診断されている人がいたりする。
昔はそんなでたらめ言うのが恥ずかしいから、【早発性痴呆】とかと、ごり押しながら一応言葉を択ぶセンスがあった。もちろん痴呆でもないし、統合失調症でもないです。統合は失調(解離)しているけど。
平気でその場しのぎの判断を押し付けて恥ずかしくないのだろうか。
おそらく知能テストの結果とか日常生活の様子の聞き取りとかから判断したのでしょうが、
失恋して悲しいとき、授業中、先生の声が耳に入らないなんてことがあるのを
ご飯が食べられなくなる人がいるってことを知らないのかな。
そういうことがわからない人こそ重症の【発達障碍】じゃないのかな。
トラウマがある場合は、発達障碍なんて言ってはいけないと思います。
PTSDと診断する→心的外傷後ストレス障碍だから、心的外傷(トラウマ)に焦点をあてなければ治癒しない→自分にはできない→馬脚があらわれる→発達障碍でいいや!統計的に増加しているんですって言っとけば、やつらは数と科学にはだまされやすいから…
なんか聞こえてくる気がするんですけど、空耳でしょうか。
そろそろそういう歳なんで…

大石順教尼の創作活動とPTSD

$PTSD研究家翠雨の日記

筆を口にくわえて書画を描いた大石順教尼(1888~1968)の作品や遺品を展示した記念館が、和歌山県九度山に開館したそうである。

口筆で書画を描くようになったのは、17歳の時、養父による一家6人殺傷事件にまきこまれ、両腕を失ったためである。この時、舞踊家としての輝かしい未来への夢も打ち砕かれている。

両腕を失うことは、身体的な痛み以上に心の痛みを伴っただろう。
事件の衝撃や理不尽さを17歳の少女が受け止めることは容易ではなかっただろう。

遺された書画も、PTSDの克服について我々にさまざまな示唆を与えてくれると思われるが、
順教尼の一番の功績は、【身体障碍者の母】と呼ばれていることにあると私は思う。

事件というものがPTSDという苦しみや孤独を生むことを身をもって知ったことが、
彼女を僧籍へと向かわせ、障碍をもつひとたちへのこころの支援をさせたのではないかと思うからである。

残念ながらPTSDへの無理解や無支援は存在する。
しかし、順教尼の遭遇された事件や生涯から学ぶ人が増えたらなあと夢想している。
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病即自己実現

順教尼は
絶望の淵で
小鳥の親子の姿に
はっとしました。
ひらめいたのです。
そこからは一直線です。
庭で掃除をしていて
山で芝刈りをしていて
悟ったお坊さんもいるそうです。
こんな環境で続けられるだろうか
誰もが思うようです。
でも後から思えば
必要なものは必ず与えられた
一本道が敷かれていたとわかるそうです。
病即自己実現です。
知恵が足りないための適応障碍と診断されると
回復の過程が混乱します。
しかし、そのような例が多いです。

『不思議の国のアリス』状態

PTSDの孤独と苦しみには計り知れないものがあります。
つらいことがあったとき相談できそうな人として思い浮かべるイメージってありますよね。
①女性同士
②親
③友達
これまでは
それなりに会話できていたはずなのに
PTSDに罹患した途端
『アナタァ・日本語・ワカリ・マッスカ?』
って言いたくなるようなコミュニケーション不全が始まります。
どうも悪気はなさそうなんだけど
理解しようとしてたらしいんだけど
誰のせいというわけでもなく
心が通じない。
『不思議の国のアリス』状態です。
さらに
④こころの専門家
いくら何でも理解するでしょう。
『みんな変よねえ』って言ってくれそうですが、
現状は…
⑤PTSDに罹患した人たち
同じ苦しみのなかにいるのだから
何も言わなくても理解しあえそうですよね。
しかし本当に深く繋がれるのはPTSD克服後というのが現状です。
仲介者がいたらなんとか繋がれますが
それは④になるので…
克服後は、社会活動とかに没頭していて
孤独とは無縁でしょう。
要するに一番つらいとき
みんな孤独のようです。
でもアリスは必ず夢から覚めます。

人魚姫≠ポニョ=順教尼

人魚姫は声を失って
海の泡と消えましたが、
大石順教尼は両腕を失いながら
書画を描き(こころの手が生えたのです)、同じ境遇にある女性を支援しました。
ポニョも
「足が欲しい」と念じていたら
必要なときに
足が生えて、海の上を駆けて宗介に会いたいという念願がかないました。
物語は荒唐無稽に見えて
現実的な哲学にあふれています。
それで心理学では物語を分析しながら
クライエントの魂の意図を探るのです。
西洋の物語と日本の物語では
背景にある宗教観や哲学が違うのです。

PTSD罹患後の人生はドラマチック

大石順教尼の生涯はドラマにもなっています。
たまたまTV大阪で観ました。
昔放映されたドラマシリーズのなかにそれはあり
若き日の市原悦子さんが順教尼を演じていました。
『わが母は聖母なりき』
だったか、そんなタイトルだったように記憶しています。
『あかんたれ』という丁稚奉公の苦労を昇華したようなお話から
このシリーズの放映を知り
なんとなく観ていましたが、
今思えば
世の中には暴力や理不尽なことが多く
PTSDに罹患する可能性は相当高いけれど
そして、なかなか理解されず
よけいにいじめられたりすることもあるけれど
あきらめなければ必ず道が開けるとのメッセージだったのかもしれません。
PTSDに罹患すると人生はドラマチックにならざるを得ないのでしょう。

絶望の淵にあるからこそ見えるものが自他を救う

順教尼の話の続きです…
事件から3年後の巡業中のある日
鳥篭の中のカナリヤを見て心を打たれました。
親鳥が雛に口で餌を運んでいる姿です。
凡人にはなんということもない光景です。
しかし傷つき絶望の淵にある順教尼の目にはこう映りました。
『鳥は手が無くても一所懸命生きている!』
順教尼は、筆を口にくわえ
書画の苦しい修行をし
学問をし
明治45年(1912)には日本画家の山口草平と結婚し一男一女の母となりました。
関東大震災に遭遇したり、夫と離婚したりしますが
昭和に入った頃から「堀江事件」の犠牲者等の冥福を祈るために仏道生活に入りました。
そして自身と同じように身体に障碍をもつ女性の収容と教育を始めました。
昭和8年(1933)には、出家・得度し
昭和11年(1936)には、勧修寺境内に身体障害者福祉相談所を開設、昭和26年(1951)に仏光院を建立しました。
書画では昭和30年(1955)日展に入選し
昭和37年(1962)、日本人初の世界身体障害者芸術協会の会員に選ばれています。
身体障害者の心の母、慈母観音と慕われた生涯でした。

平成の世の順教尼とその苦悩

大石順教尼は日本中を震撼させた話題の事件の被害者です。
しかし、身障者となった自身の姿を見世物として
寄席や地方巡業で生計を立てながら
両親を養ったそうです。
なんということでしょう。
PTSDを癒されるどころか
傷口に塩を塗られるような日々ではないですか。
現在のPTSD罹患者の境遇もさしたる違いはないと思います。
確かに臨床心理学などというものがあり
トラウマやPTSDというものが周知のものとなりはしましたが
またDVシェルターなんてものもないことはありませんが
そのPTSDの孤独と苦しみは順教尼のそれとなんら変わりがありません。
PTSDだけでもつらすぎるのに
まともな治療が施されるどころか
誤解され
殆どキワモノ扱いされることも珍しくありません。
平成の世にも見世物としての順教尼がたくさんおられます。

大石順教尼の生きざまとDV

先に、大石順教尼について紹介しましたが
根本問題はDVです。
順教尼は、明治21年の大阪・道頓堀の生まれで
15歳で芸妓への道を選び、「山梅楼」の中川万次郎という人の養女となりました。
悲劇はその山梅楼で明治38年6月21日に起こりました。
養父となった万次郎は、妻の駆け落ちから酒に溺れて狂乱し、殺傷事件を起こしたのです。
被害者は、逃げた妻の母親、弟、妹、養女にしていた二人の芸妓の5人です。
日本中を震撼させたこの恐ろしい悲劇で、順教尼ただ一人一命を取り留めました。
しかし17歳にして両腕を切断され、顔にも切り傷を受けました。見えないので見落とされがちですが、こころの傷(トラウマ)も並大抵のレヴェルではなかったでしょう。
芸の道を志したつもりが、PTSD克服への生涯へと変換させられました。
この道は一本道です。
渡るのも危険であり、途中にあるのも危険であり、ふりかえるのも危険であり、身震いして足をとめるのも危険である。                                  ニーチェ
どんなに怖くても不安でも、生きるためには渡りきるしかないんです。