DVシェルターで
子どもたちに
箱庭をしていて
いつも思うのは
表現することで
人間は
活き活きとする
ということです。
「作ったろうか?」
って笑いながら入室する
やんちゃ坊主もいます。
あえて言葉にしなくても
その秘策を共有した
喜びを
子どもなりに表現しているのです。
ラポールって言います。
心理療法の基本です。
子どもはどんどん
表現したい。
乾いたのどが
水を必要とするように
箱庭表現を
必要としています。
私には
箱庭のほかに
書類を書いたり
会議に出たりする仕事があり
思う存分
箱庭をする時間をとれないのですが
それを理解するのは
子どもには
まだ難しいです。
「お仕事あるからね。
ごめんね」
と言うと、
「学生さんやろ?」
こんな年取った学生さんがあるか!
と思いつつ
「お仕事で、来てるよ」
「違うわ。学生さんや!」
他の職員とこんなに
違う態度は
学生さんということに
しなければ
理解不能なのでしょう。
同じ理解不能でも
こういうのは
ほほえましいものです。
こんな感じで
やってるのに
「偉そうに
何か教えてる」
という疑惑をもつ人も
専門家の中には
いました。
【投影】っていうんですけどね。
自分の中にある
認めがたいものを
私に映し出す無意識の
防衛機制です。
いろいろあって
学会で
表現の重要性を信じてもらうのに
5年くらいは
かかりました。
多くを語らなくても
察してくれる
数人の方々は
ありましたが
大半は
「無理にさせている」
「危険だ」
勉強しなおしてくるように
という人さえ
いました。
子どもたちは
みな表現の大切さを
身をもって知っていて
学会にくるような
専門家は
耳学問を
あてはめて
理解しようとしない。
しかし
これは5年前のこと
今は
そんなこと言う人
いません。
懐かしいです。
仏教との関係も
「お前に何がわかる!」
とは言われなくなりましたし、
陰陽五行も
ちょっと茶化して
関係を
修復しようとする人が
現れる段階まで
きました。
ありがたいです。
一番厄介なのは
逃げ回る人たちですね。
自分の過去の失敗
(知らずに
公の場で醜態をさらした
ショック)からの
回避・否認でしょう
昨年は
私の学会発表で
指定討論者が
なかなか決まらず
たらいまわしになり
抄録集の印刷などが
遅れました
無事に発表でき
7年間学会で感じた
哀しみは理解して
もらえましたけどね。
継続は力なり
と信じます。
(信じていますとは
なかなか言えないですよ。
私も人の子ですから
…
みんな同じです。
迷いながら
時に絶望しながら
がんばりましょうね)