ユングの心のモデルでは
人間の無意識には
個人的無意識と集合的無意識が
あります。
フロイトの精神分析には
個人的無意識しか
ありません。
トラウマは
後天的なものですが
無意識は
日々ミキシングを繰り返しています。
仏教の唯識では
【阿頼耶識は異熟するなり】と言います。
↑
無意識
我々の無意識にあるのは
常識で考えると知るはずもない
先天的なものが大半なのです。
―あなたは
お母さんに呼吸の仕方を
教わってから生まれてきましたか?
特に文化に関するレヴェルの無意識が
個人的無意識に混ざっています。
また
我々が生きているのは
まさにその文化ですから
それを無視して
社会とつながるのは
無理な話です。
暴君にでもならなければ…
(これは下手すると小さなコミュニティーで
暴君と化す可能性を示しています)
前置きが長くなりましたが
自分を失くした人が
自分を探す物語が
禅画『十牛図』です。
この図によれば
社会とのつながりは
自分探しの果てにあるのです。
最初から
社会とつながることばかり
考えていては
大失敗します。
かの国ではそれでも
よいのでしょうが
君子の交わりは
淡き水の如しで
なければならないと
思います。
保健所のグループで
「寂しい、淋しい…電話番号教えて…」
と苦しみ、混乱を深めていた
ヒステリー女性
(この診断名の人と幸運にも逢ってます)
のことを思い出しました。
ハーマンに今からでも
つけたしてほしい…
月別アーカイブ: 2010年4月
『心的外傷と回復』② つながりを取り戻すこと
本書は
つながりを取り戻す
ことに関する本である。
つまりは…
公的世界と私的世界
具体的には
アウシュビツから
戦地から
凶悪事件から
DV家庭から
虐待を基礎とする親子関係から
物理的にはなんとか
離脱することに成功したものの
孤独なサバイバーが
もう一度
社会とつながりなおす
ための指南書でもある。
度を越した
恐怖や不安が
トラウマとなること ①
そしてそこからPTSDに
罹患する可能性があること ②
罹患者の抱える孤立 ③
さらには
孤立を回復すべきであること ④
これらを的確に
示したスマートな知性には
類稀なものがある。
アメリカ社会では
この本は完璧だろう。
しかし
いざ【つながり】という問題に
焦点が当たると
自分と世界の問題であるから
たちまち【存在論】の問題に
変貌して
立ち上がってくる。
個人には自由があるが
この問題に関しては
所属する文化の影響を全く無視
というわけにはいかない。
『心的外傷と回復』① 貴重な本だがPTSDバイブルではない
トラウマ問題の諸相と
治療への道を
具体的に描いた
本書は〈バイブル〉と
呼ばれています。
トラウマを取り巻く
現状を考えるとき
医療や福祉が
相当なレベルで不完全である以上
罹患者は
自力で克服するしか
ありません。
C.G,ユングは
知的な資質が高いクライエントには
学習も勧めたようですが
平成のPTSD罹患者は
全員が学習者でなければ
ならなくなりました。
しかし
フロイトの精神分析の
【防衛機制】だけでも
読みこなすのは大変な作業であるうえに
PTSDに罹ると
以前は読めたものも
読みにくくなるのが
普通です。
―もし安定して読み進むことができ
本当に理解している人がいたら
それこそPTSD誤診を
疑います―
1つにはそういう意味で
2つめには
フロイトにはまだなかった発想
でありながら
今の時代には必須であること
が書かれ
3つめとして
現代人のこころに響く
表現や言い回しで
カジュアルに書かれている
こういう本は他にないので
この本はPTSD入門書として
貴重だと考えています。
しかしバイブルにしては
いけないと思います。
放鳥トキのペア、卵1個また巣外に捨てる~蛭子
巣にあった卵を
雄がくちばしでつついて穴を開け
巣外に捨てています。
卵の中にひなの姿はなく
無精卵か
発育が止まった卵と
みられます。
トキは通常
4個の卵を産むが
無精卵などで育たない場合は
親鳥が捨てることがあるそうです。
蛭子みたいな
感じかな…
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臨床心理士国家資格化を阻むもの④ 『心的外傷と回復』の日本版がない!
DVシェルターでのバイブル的
書籍
ハーマンの『心的外傷と回復』
中井久夫先生の
訳語ノートによれば…
サバイバー
(survivor)は
元来は
「その後に生きる者」
その後というのは
災厄的なことです。
17世紀の初出は
【アダムとイヴの後に生きる者】
(支配者のいいなりになるのが
気楽とは思えなくなり
自分の頭で考えるようになる
つまり楽園追放ですね)
ラテン語では
ズバリ!
【ある治世(支配者)の終焉後】
心理療法の難関
【死と再生】が
PTSDのサバイバーには
求められているのです。
なるほど
この意義も喪失した
ユング派には
PTSDは理解不能ですね。
精神分析的カウンセリングそのものの
ハーマンは現在の日本のユングよりは
相当レヴェルが高いですが
ご多分にもれず
やはり日本版に書き直す必要が
あるでしょう。
ゆっくり書いていきますが
一番わかりやすいのは
タイトルの【回復】です。
わが国では【快復】でなければ
なりません。
回復は二元論
快復は一太極二陰陽
西洋思想と東洋思想
大きな差がまだ残っています。
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臨床心理士国家資格化を阻むもの③ 先祖がえりし講釈師になった日本のユング派
キリスト教の牧師と
チベットの仏教僧
ユングは
牧師の息子ですが
『チベットの死者の書』を
座右の書としました。
ユングは
別に仏教に改宗した
わけではありませんが
魂の研究において
陰陽五行や仏教の存在を
無視し
キリスト教の文化や哲学だけの
閉じられた世界で完結させる
ようなことはしませんでした。
なのに
今の日本のユング派は
ユング以前に
先祖がえりした感じです。
チベットの僧たちが
行うように
集合的無意識のなかにある
魂の一定の法則をつかみ
不安なこころを
そこに回帰させ
ご先祖さまの一員に
名を連ねる安心感を
与えながら
進化再生させる
そんな方法ではなく
牧師のような
講釈師に変貌したタイプが
増殖中です。
枝雀さんに
あの世から
「やいっ!
おたまじゃくし
かいじゃくし!」と
叱ってほしいです。
―くしゃみ講釈より
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母親の死を契機に笑わなくなったPTSD児童への絵画療法
庭先ですれ違っても
無愛想
名前を聞いても
返事もしないし
おかしなことを言っても
笑わない。
打つ手がないように
思いましたが
笑わなくなったのは
母親と出かけたあと
一緒に大病をし
母親だけが亡くなってから
という情報を得て
母が亡くなる前に
一緒に楽しんだ
舞踊団の絵を描きました。
笑わない子は
絵を観ます。
母と一緒の
あの楽しかった舞踊が
活き活きと
リアルに思い出され
笑顔があふれました。
あのときに
タイムスリップしたのです。
―精神分析では【固着と退行】
仏教では【温故知新】
陰陽五行では【太極】
リセットの法則が効いてます!―
そして
「長い間聞こえなかった
音が聞こえました」
と言いました。
主人公は
大病をすると
聞く機能を失うことがあると
聞いたことがあると言います。
―もちろんPTSDのことですね。
外科手術して聞こえたのでは
ないですから―
この子は
自分だけ聞こえない世界にいて
笑えなかったのですが
絵を観て
自分だけに聞こえる
音を聴いたのです。
GYAOで本日から一週間やってますよ!
韓国ドラマ『風の絵師』第十五話です。
催眠法の限界
心理療法の源は
宗教や哲学ですが
心理療法と呼べるものの
最初は
【催眠法】です。
催眠法は
瞑想(座禅)を
効率よく行おうとする
ものですから
理論的には完璧ですが
実際には
人間が
暗示をかけるので
セラピストの
人間性が問題になります。
そのために
殆どのものは
依存性や
よくないマインドコントロールという
禍根を残してしまいます。
フロイトやユングも
最初は催眠をしていたのですが
そういうことに気づき
独自の方法を見出したのです。
(外から暗示かけなくても
内に正しい答えありますし…)
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哲学は哲学者の専売特許ではない
心理療法は
二律背反
あるいは
矛盾の相克の中に
身をおいて
なされるものです。
陰か陽か
ではないから
たちまち
哲学です。
子どもも例外ではありません。
それを言いたくて
宮崎監督は5歳の宗介を
主人公にし、
ヒロインも同じくらいの年齢の
はちゃめちゃな
ポニョにしたのです。
日本では
【一太極二陰陽】が
リセットの法則ですが
ゲームじゃなくて
死活問題ですから
楽ではありません。
だから
ユングは
心理療法の理想は
ありもしない幸福に導くことではなく
苦痛に耐えられる強さと
哲学的忍耐力を身につけさせることだと
言ったのです。
ポニョも公案そのものですから
【哲学】です。
子どもだって
哲学するのです。
これが
今では
【統合失調症】を経過したと
言われる混乱を克服した
ユングが魂と葛藤して
つかんだ答えです。
(ユングは神経症と呼んでいますが)
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通過儀礼における如来とポニョと自己実現
古代人は
先祖代々の言い伝えから
人生における魔境の
存在を把握し
(思春期や更年期
厄年みたいなものです)
その年齢になれば
通過儀礼を受けました。
少し間違えれば
死んでしまうような
儀式もありますが
村中でその意味を共有し
支えました。
現代は
個人個人で必要に応じて
しかも
危険に遭遇して
傷ついてから
行われるので
孤独感と危険性
痛々しさは
古代の比ではないでしょう。
一見、高い木や崖から
飛び降りる方が
危険な感じがしますがね。
そして高所から飛び降りる事自体が
目的ではありません。
そのことに伴って
内界で起こる
【死と再生】が
本来の目的です。
【如来】と言いますね。
たとえば阿弥陀如来が
実在するとかしないとか
ではなく
【来るが如し】で
【かのような】ですから
【比喩】であり、
【象徴】としての意味です。
【如人千尺懸崖上樹】
ポ如 崖の上の
であるポニョも
ポニョがいるとかいないとかではなく
と言って単なる絵空事でもなく
家出したい!という
気持ちが
内界からやってくることを
象徴します。
家出したい気持ちを
深く見つめ
【象徴的に家出する】のが
臨床心理学のやり方
なのでしょうね。
つまり
(虐待ケースとかでなければ)
家族から心理的に自立する
ということを意味します。
それは【自己実現】とつながる
橋です。
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