「栂尾明恵上人遺訓」にあるそうです。
『人は阿留辺畿夜宇和
(あるべきようは)の
七文字を持(たも)つべきなり。
僧は僧のあるべきよう
俗は俗のあるべきようなり。
乃至(ないし)帝王は帝王のあるべきよう
臣下は臣下のあるべきようなり。
このあるべきようを背くゆえに一切悪しきなり。』
これは
貞永式目の
精神的バックボーンをなすもの
とも言われているそうです。
「~は」で終わっていますから
「どうだ?」という疑問形の
ニュアンスがあります。
つねに自分に問い続ける。
自分の頭で考え続ける。
―禅問答で
師 「~よく持(たも)つかぁー」
弟子「~よく持(たも)つぅー」
というやりとり見ますよ。
「あるがままに」
―母性的です。うちの子はみなかわいい。
「あるべきように」
―父性的です。そういうのはうちの子ではない。
出てゆけ!
どちらでもないのです。
人に聞くのは簡単。
でもPTSDの場合は
下手すると地獄を見ます。
つらくても
どんなに難しくても
【一太極二陰陽】
陰でも陽でもなく
陰陽(善悪・損得)の発想のおおもとに
立ち返って
その場その場で
自分の頭で判断する。
そうしたら
それがユングのいう【個性化の過程】
(自己実現)に
なっているのではないかと
思います。
―専門家でもここをよく分かってない人多いです。
ハッピーエンドだと勘違いしてる
西田幾多郎は
「松は松、竹は竹…」で生きるのが
人間の【善】であると書いています。
簡単そうでむつかしいですね。
でもやるしかないのです。
明恵上人の【あるべきようは】は西田哲学の【善】ユングの【自己実現】
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