キャラ弁文化と集合的無意識

楽しいお弁当ですね。

PTSD研究家翠雨の日記

しかし
画家の安野光雄さんが
危惧しておられる。

お母さんがいなかったり
いても作ってもらえない子が
どう思っているかと。

おもちゃみたいなお弁当だと。

うーん。
人生の悲哀を感じますね。   ←西田哲学の出発点
いいとか悪いとか       ←陰陽
一概に言えないけど
傷つく子は多いでしょうね。  
給食や制服って
そういう意味もあるんでしたよね。

そう言えば
私は戦争や貧困を体験してませんが
中学校のとき
お弁当半分覆って食べてました。
すると周囲の人たちも
そんな感じになって
先生が神妙に笑ってましたよ。  ←なんとなくわかるんでしょう…

隠さねばならないような
お弁当食べてる子は
いませんでしたから

あれは無意識的に           ←国民的無意識
そうなったのでしょう。

親がそうしなさいと言うはずもなく   ←家族的無意識
(キャラ弁にははるかに及びませんが
 結構自信作のつもりだったハズ)

今でも
人前で自前のお弁当広げるとき
少し抵抗ありますよ。

いろんな人がいるから
自慢に見えたらいけないから
気にしたらいけないから

これだけ自分勝手に
いろいろ書く人間でも
そこは気にしてるものなんですね目

キャラ弁文化と集合的無意識」への0件のフィードバック

  1. bee

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    キャラ弁を作ってあげられないお母さんにも葛藤があるかもしれません…
    自慢に見えたら困るから
    子供が困ったら困るから
    食べ物をおもちゃにしてはいけないから
    残してはいけないと脅迫してはいけないから

    返信
  2. 翠雨

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    >beeさん
    お弁当って…
    なんかブログみたいですね。
    子どもへの公開手紙みたいな。
    問題ないようにしようとすると
    それは哲学ですね。
    いろいろ気づかせて下さって
    感謝感謝です(ノ゚ο゚)ノ

    返信

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