マタイ第一章の最後
「ヨセフは
眠りから覚めた後に
主の使が命じたとおりに
マリアを妻に迎えた。
しかし
子が生まれるまでは
彼女を知ることはなかった。
その子を
イエスと名づけた」
…
現実には
ありえないことですね。
聖書は
【象徴】として読むものです。
―アメリカの一部
カチンカチンの信者は
進化論を否定するくらいですから
別です。
夢現(ゆめうつつ)
つまり
夢か現実かわからない心的状況で
自分の所属する
集合の無意識にいる
常識や規範に出会うのです。
イエス
(意識)は
生まれる前に
(両親と出会う前に)
集合的無意識と
出会っています。
―業とかカルマとか
いう宿命のコンプレックス
【父母未生以前の面目】です。
この
誰の所有物かわからない
誰の責任なのかわからないものに
人間は振り回されます。
スサノヲ然り
アジャセ然り
イエス然り
否応無しに
見せられるのが
【象徴】というものです。
処女懐胎エピソード「父母未生以前の面目」としての【象徴】
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