毒づくイエスのいない被災地のこころのケアは心配

ケセン語訳の新約聖書の著者
山浦玄嗣さんは
イエスが十字架で
「わたしの神よ
 わたしの神よ
 なぜわたしを
 お見捨てになるのか?」と
叫んだ部分を
苦悩のなかで
毒づいている

解釈されていて
面白いなと思いました。
「あなたに依り頼んで
裏切られたことはない」と
しめくくられる
詩の一部だけど
最後まで口にできず
力尽きてしまったようです。
 ―お釈迦さまの場合は
 人食い鬼に身を捧げる覚悟で
 聞きたい詩を   ←いろは歌の原形
 最後まで
 教えてもらい
 生きたまま
 救われます。
 聞くのと言うのとで
 反対ですが。
神への信頼は大前提ですが
苦しいから
時々毒づく
しかし
そうしながら
イエスは死んでも
復活したように
変化してゆくものが
あるのだと思います。
毒づき病に堕しては
 ―妙に肯定されると
  モンスターになる。
 精神分析では
 「思い上がり」
 これは恫喝されます。
 仏教でもかな。
治るものも治らないと思いますが
イエスでも
毒づくのだから
普通には
あることだろうなぁと
思います。
 ―見極めが大事です。
イエスは自我の象徴ですから
瀕死の状態の
文学的表現です。
『白鳥の湖』なら
黒鳥が出てくるところでしょうかね。
$PTSD研究家翠雨の日記
悪魔ロッド・バルトなんかも怖いです。
$PTSD研究家翠雨の日記
 ―魅力的なので
 危険なのです。
しかし
せっかく毒づきを肯定しながら
被災地には
「なんでこんな思いをしなければ
ならないんだ」と言う人が
いないと
 ―言わせないようにしているような
ほめているのは
ちょっと困るなぁと思いました。
イエスは因果応報を否定していると
書いてますが
仏教では
答えのないことを
考えるのを
 ―二元論を超える
奨励します。
牧師の子であった
ユングも
この問題に悩み
仏教的な考え方を
するようになりました。
そういう意味では
キリスト教は問題があります。
香山リカは
親鸞とわたしについて
シリーズで書きながら
どちらかというと
キリスト教に親しみがあると
書いています。
なるほどなぁと思いました。

毒づくイエスのいない被災地のこころのケアは心配」への2件のフィードバック

  1. franoma

    これは、失礼ながら見落としておりましたので、今更ですが、コメントします。

    作品社( http://bit.ly/24uVQRX )なる出版社は、なかなか目が利く御仁がおわしますらしく、マルコによる福音書の日本語訳と註釈もイエズスさえ「毒づく」ことを明示しています。綺麗ごとではPTSD予防&克服はできないということですね。

    返信
    1. wpmaster

      ありがとうございます。

      「神への応答」に関して、言論でも音楽でもそれぞれの理解に「濃淡」があるのですね。
      とても大事なお話だと思います。

      返信

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