2007年1月
当時10歳で
小学5年生だった長女を
交通事故で亡くしたそうです。
―連続暴走事故と同じで
過失はゼロです。
何で?と
誰でも疑問が湧きます。
これは常識では解けない
哲学です。
葬儀が終わって
普段の生活に戻っても
喪失感は薄れるどころか
深まるばかりで
毎日24時間
亡くなった長女のことを
想い悲しみに暮れるばかり
だったそうです。
―妻や次女への心配りが
全くできなかったと
自責の念も感じておられます。
苦しい作業ですが
必要な過程ですね。
合理的には行きません。
家族のために
悲しみを表に出さず
家事や育児を頑張っていた妻は
病に倒れ寝込んでしまい
―悲しみは傾聴されるべきですね。
風見さんでなくてもよいので。
当時3歳だった次女が
テレビ画面に映っている
ビデオの姉に向かって
「ごめんなさい」と
頭を下げて謝っている姿に
―自分が悪い子だから
お姉ちゃんが帰ってこないという
幼児特有のアニミズム思考
傷つきながら
残された家族と一緒に
生きて行く決心ができたそうです。
―過程や答えは十人十色ですが
1つの原理があると思います。
簡単ではないですが
できるように
こころはできてるんですね。
専門家がいらぬことをしなければ!
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彼は高校の同級生なんです。事故死の後に同級生が集まり色紙に寄せ書きを書いたのに、亡くなったえみるちゃんのことを書いたのは私一人でした。
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>精神科医・うつ病否定のPTSD研究者サイコドクターSの日記さん
記事を拝見した時や、出版(読んでないので)の頃は詳細がよくわからなかったのですが、今回ご本人の言葉に触れ、喪の作業の過程を貫かれた思いに驚愕しました。そんななか、えみるちゃんのことに誰も触れてくれないのは寂しかったでしょうね。改めて傾聴の難しさを知りました。