トラウマがある子は
自我中心には生きられず
一度
根源である
セルフ(自己)の世界に行って
癒される必要がありますが
癒されるまでは
イエスのような受苦の連続で
試練です。
自分だけが持つ
飛行石のようなものに気づき
―あくまで比喩
それを人に横取りされたり
悪用されたりしないように
大事にしながら
使い方を感覚でつかみ
コントロールしながら
セルフの世界に進みます。
そこに行くまでに
自我が鍛えられ
癒しが得られるのです。
人間関係もよくなります。
―海賊すら友達になります。
自分の影ですからね。
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影とは、「自分がなりたくないものや苦手なものや生き方」と、どこかに書いていましたが、例えば私は命令口調で言い切るような支配的な人が大嫌いで、大の苦手で、そういう風には絶対になりたくないという気持ちが強く、そういうものに対する反発心も強いのですが、同じ職場のスタッフにそういう面の強い人がいます。
最近、役
4月に人事があり、その人の私に対する態度が微妙に敵対心というか厳しくなったように感じられます(基本は仲がいい)。
ですが、何事も自分自身の問題として考えてみたとき、もしかしたらその人が私に向けているように感じるものは私の中にある影の部分ではないかと思えました。
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>RINKOさん
布置にもなっているのですね。
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>翠雨PTSD予防&治療心理学研究所さん
別記事の内容からも思ってみましたが、布置とするならその意味は、「父親殺し」であり、私の場合それは「姉殺し」(年上の威圧的な女性)の心的欲求が置かれているということなのかな…。
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>RINKOさん
その人の父性だから、実際には絶対的な存在だった姉ということもあるでしょうね。
そのように自分に照らし合わせて拡充することが大事だと思います。
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>翠雨PTSD予防&治療心理学研究所さん
「その人の父性だから、実際には絶対的な存在だった姉ということもあるでしょうね。そのように自分に照らし合わせて拡充する」と、キリスト教徒の絶対的な存在としての父性は「天の父」です。
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>あ*さん
そうなりますね。キリスト教圏の人々のなかにはそのようなものが住んでいるようで、そこが異質さとして感じられるような気がします。
Re.がなぜかたくさんついてますね。