戦争PTSDが産んだ『ブリキの太鼓』

胎児のとき
羊水のなかで
「大きくなったら店を継がせよう」という
父の声を聞き
そのたくらみを拒むために
(一族にはPTSDの世代間負の連鎖もあるので
断ち切りたかったのでしょうが
方法を間違えました)
3歳で成長をやめることを決意し
晩年は精神病院の住人となった
オスカルの物語ですが

作家のギュンター・グラスは
第二次大戦で
最年少兵として戦い
負傷して
米軍の捕虜となった後
採掘場などで働きながら
彫刻や詩や戯曲を創作しました。
トラウマを昇華させるための

人生だったわけです。

戦争PTSDが産んだ『ブリキの太鼓』」への2件のフィードバック

  1. あ*

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    我が家のDV元夫も戦争PTSDで、『ブリキの太鼓』が好きでした。
    息子は「大きくなったら…継がせよう」という…声を直接には聞いてはいないけれど、
    息子が普通に音楽をしたり暮らしたりしていたら、それが彼らに「同化されない」ことを示してしまったようで、親父がキレて暴力がエスカレートして「お前ら殺してやる」と言って首を絞めたり二階から投げ落とそうとしたりするようになったので、命からがら逃げて、今日に至ります。
    逃げて4か月ほどで311があり、
    放射能汚染のなか、親父からの殺害予告はじめストーカー行為に耐えつつ、被曝の影響をなるべく小さくすべく努力してきました。最近、親父が占拠していた自宅を去り、放射能汚染だけの問題になりました。汚染で、遺伝子に傷がついた可能性があり、親父は、ほかに子どもを作ることにして、ダメになった日本人の血を引く息子は遺棄して関わらないことにしたのかも知れません。日本に残る不動産も資産価値がなくなったと見て、これ以上、むしり取るものもないと判断したのかも知れません。あるいは、これだけ嫌がられるなら諦めるしかないと思ったのかも知れません。本当のところは不明ですが、良い機会なので、すっきりと縁を切り、それぞれが残った余命を大事に生きて、なすべきことをするのが吉ですね。「お前ら殺してやる」という「加害者としてのPTSD」には、「殺すなかれ」と諭すことが第一に必要です。

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