坐禅専門家のブログも
拝見した。
悪い持病が出て
目が泳いで
妄想し始め…
思い出した!
昔から
癒しの方法として
祈りや瞑想などが
方法として
奨励されている。
―癒しは誤解が多い言葉だが
自己実現しないと人間は癒されない。
自己実現の前には必ず
苦悩がある。
でも…
★それが信じられなから ←信じたくない=否認
★いますぐ何とかしたいから
(悠長なことはしておれん!と ←誰に向かって?
怒り)
★苦痛だから
本気で向き合う人が少ない。
「過去の宗教くさいもの」と
【合理化】している。
高いところにあるブドウを
「あれはすっぱい」と
決めつけるキツネみたいな
ものだ。
教科書的には
【知性化】と言うのだが
誤解が多いから
あえてランク下の【合理化】と
私は呼ぶ。
合理化って聞くとまた
「合理的か。
そう私は合理思考ができる
おりこうさんなのよ」って
誤解されそうだが…
宗教と聞くだけで
アレルギーを起こしたり
無宗教だと威張るのも
この防衛機制が
働いている。
誰に向かって
怒るのか?
その【誰】をつかんだら
人間がいかに宗教的な存在か
わかるだろう。
坐禅する姿は
龍のようで
魔王もおののいて退散すると
道元は言ったが
確かに
この人の不動の坐禅は
私に妄想させ
気づかせる力があった。
真実はシンプルなのですが
人間が複雑にしたがるのでしょう。