藤圭子さんについて
音楽評論家らが
いろいろな
コメントを寄せています。
五木寛之さんの
コメントは
既に書きましたが
―個人史にトラウマ
ドスの利いた声は
高度成長から
取り残された
庶民の悲しみと共鳴し
―集合的無意識のなかの
トラウマを掬い上げた
巫女的存在
個人的経験が
普遍性を持っていた。
時代の歌として
記憶に深く刻まれたとか
「圭子の夢は夜ひらく」の出だし
《十五、十六、十七と
私の人生暗かった》は
過去を引きずる女性の
鬱屈した心情を
吐き出すようだとか
―トラウマを否認せず
表現することが大事ですね。
「その存在自体が
時代の隠喩だった」と
言われています。
「70年安保という
当時の時代の重さや
大きな敵を前にした
虚無感のようなものを
ごく普通に
具現化した
類例のない歌手だった」
「経済成長一辺倒の
社会をやましく感じる
反体制的知識人や学生が
繁栄を享受できない
庶民の怨念を背負ったかのような
藤さんを支持した」
こういうコメントは
今の
医療問題とも
重なっているように思いますが
―猫も杓子も
病院に勤めたがり
専門家であるだけで
崇拝する。
今は
庶民側は
搾取され
飼いならされ
麻痺させられ
力を失っています。
アイドルの台頭で
“軽薄化”していることも
―精神医療でも
リカちゃんとか
絶望の背中を押したように
思います。
藤圭子さんの怨歌はPTSDを否認せず表現することの大切さを教えた
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