日本人の母子関係は
独特なのですが
―家庭内暴力の息子も
追い出されない。
悪態つきながら
無料で治療しろと言ってくる
未治療重症PTSDがいる。
北山修は
浮世絵の研究から
母子が
ホタルや花火
シャボン玉を
一緒に眺める構図の多いことに
気づき
―西洋の絵にはあまりないらしい。
日本の母子関係を
象徴している
この構図を
「共視」と名づけました。
物ではなく
関係性が象徴的だったりするのです。
―『あの素晴らしい愛をもう一度♪』では
二人の人が1つの花を見て美しいと言う。
華厳経も入っています。
華厳=花を飾る
確かに
一緒に曲をつくった仲間は
自殺してしまい
こころとこころがもう通いません。
言ってみればこれは
「一太極二陰陽」ということかなと
思います。
― 綺麗だけどはかないものを
親子(陰陽)が一緒に見ている。
傾聴が心理療法の基本だけど
―観音は
音を観るわけで
共感覚的だから
別によいのですが
箱庭療法の場合は
「共視」の方が
わかりやすいですね。
問題には
向き合うののではなく
横の関係でつながるのだそうです。
― それが「和」とのこと
古沢平作も
―フロイトの弟子
問題を直視・洞察するのではなく
―精神分析(西洋)
蕩かすのだと
言いました。
最近の本邦ユング派より
―象徴が観えないらしい。
日本文化を大事にしていますね。
観察主体は、母や子守りの背におんぶされた乳児にもあることから、某大先生は変ではないかと以前、コメントしたことを思い出しました。
『内省能力がないのはPTSD否認発達障害でっちあげ研究者の方だろう』( http://bit.ly/1SPYQov )
に対応する飴風呂記事にしたコメントです。
本当は、胎児の段階で「目」ではないけれども、子宮壁を撫でたり蹴ったりして、そこに何かがあると触覚から観察していますし、撫でられて妊婦が笑うと、もっとやります。つまり胎動にさえ母親からのフィードバックもかかっているわけですね。あるいは、胎動が始まった後なら、道路工事の大音量に(聴覚や振動への触覚で)ビックリして飛び上がったりもするので、胎児の観察主体の立ち上がりは、相当に早い時期のものです。したがって、ネグレクトはじめ児童虐待も胎児期に始まると言えますね。喫煙や間接喫煙、飲酒だけでなく、妊婦さんがご主人と同じものを食べてしまい、母(体&胎)児の心身の声を無視すれば、結果的に胎児のネグレクト=虐待になります。子どもの顔面に故意にタバコの煙を吹きかけるのも立派な虐待ですね。それで、心理職で大学教員なので困ります。見掛けたら逃げるしかありません。
「赤ちゃんは観察主体」( http://ameblo.jp/raingreen/entry-11403893573.html#c12117666856 )で、母子は乳児期から日常的に「共視」していますね。
母子の「共視」だけでなく、父子の「共視」、身近な仲間との「共視」を箱庭療法で実現すれば、治療的ではないかと思いました。心象風景の共有ですから。
http://ameblo.jp/king-sekaifrom/entry-12127937839.html#c12821637817
に「養育不適切だと確実な判定がある場合でも養育者への我が子への愛着形成をはかるべくプログラムがなされてなく、専門性が低い」と児童相談所に対する批判があり、その批判に対する答えは既にあるというコメントを書いたら蒸発したので、ブログ記事
『まだ起きていない不幸は避けられるので避けましょう。』
http://ameblo.jp/aya-quae/entry-12129322577.html
にしました。
戦前生まれの人たちは、生まれたときを1歳と数えていましたね。
韓国ではまだそのほうが主流のようです。
生まれる前から、感覚運動的にいろんなことを学習しているのに、今の専門家はその時代の経験を考慮しないのでしょう。
PTSD反応が出た時点の様子にしか関心がありません。
そこだけとりあげるのが「誤診と薬漬け」の操作のためには「合理的」だからでしょうね。
実に打算的です。
言葉が届かない時代の問題には、箱庭でもやらないとどうしようもないですね。
摂食障害なんかも言葉でグダグダ言ってもどうしようもないと思います。
(病院は長引くほうがよいので、わざわざそうさせます)
不登校の小学生の箱庭の横で、お父さんと2歳児が一緒に箱庭を置いたことがあります。
その子は、こちらが想像するより遥かに深く退行できていたのかもしれないなと今思いました。
いろんな次元のものが一瞬で伝わりますからね。
「過去を忘れて前向きに」とは異質の空間です。