『思い出のマーニー』自己を探す狂気がPTSD治療の過程

クールに見えた杏奈ですが
マーニーを無我夢中で捜し
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(『おむすびころりん』が入ってますね)
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クライマックスの
崖の上のサイロでは
(崖の上のポニョから
ジブリは十牛図の世界)
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狂気が強調されていました。
心療内科医に見られたら
大変です
(幻覚に突き動かされて
走り回ってるのですから
統合失調症と誤診され薬漬け)
実は
禅のねらいは
「自己を探す狂気の提案」なのです。
(柳田聖仙)
ジブリは
いつも
とても禅風です。
 

『思い出のマーニー』自己を探す狂気がPTSD治療の過程」への6件のフィードバック

  1. あ*

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    ちょうど先ほど、他所さまのブログ記事にて、「もの」「こと」「間」について拝読して
    『根源的受容可能性から世界の見方を学び直す ―
    「心身景一如」論のための覚書(五)』

    http://amba.to/1A7Cb7I
    とコメントしたところです。シンクロナイズしています。要塞都市ストラスブールには戦争博物館があります。ちょうど、あのような場所にあるがゆえに独仏の長年の対立によるPTSD問題に煩わされてきた、その地域の人々が戦争を「博物館」に封じ込めるべき「過去の遺物」としたことが判ります。一方、日本でも西南戦争跡は街中に弾痕をそのままにしており、西郷隆盛の評価もまだ、これからの課題と感じます。今の日本は、鏡を見ているようです。以前、
    http://ameba.jp/dembo531/entry-11974695628.html#c12663418222
    にコメントしました。
    翠雨先生がお書きの
    「幻覚に突き動かされて
    走り回ってる」状態とは、
    「マーニーを無我夢中」(=無意識のなせる技に任せて)
    捜していた「こと」として、他者から理解され受容可能な「こと」であり、
    杏奈が「統合失調症」という「もの」=世間様から受け入れられない「もの」ではないということができますね。
    そういうところに、「統合失調症」ラベリングをする心療内科医が出てくると、「間が悪い」ということになります。
    「心身一如」で考察しても足りず、「心身景一如」でなければ、その場において「心身のありかた」が如何なるものであるかを解明することは、そもそもできない相談なのでした。
    ところで、一昨日、
    http://amba.to/1A7BCuw
    「特に女性は『なぜ、わたしのことをわかってくれないの?』と感じてしまう部分が大きく、それをそのまま家族やパートナーにぶつけて…」って[女性蔑視]の本か」
    と「なう」に書きました。
    ラカン派の片田珠美氏がお書きのように「抑圧した怒り」の問題と「ことの顛末」を解すれば、「女性とは、感情的な《もの》だ」という「女性蔑視」の本が出されて、女性読者が意味なく自己否定に陥り、「私は感情的だからダメなんだ」とセルフネグレクトに誘導されることはないので、ここはラカン派の皆さまにも頑張っていただきたいところです。

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  2. 翠雨PTSD予防&治療心理学研究所

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    >あ*さん
    心身景ですか。
    やはり3なんですね。
    心療内科のしていることはほんと「間抜け」で滑稽な悲哀を誘う悲劇です
    閉じ込められたマーニーは、個人的な話ではなく1つの象徴であるというのも大事なところでした。
    2年前の学会発表の時は、象徴が使えない発達障害が増えているという愚説を批判するラカン派の若い研究者と一緒でした。その後出版もされましたが、頑張ってほしいと思います。

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  3. あ*

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    「禅のねらいは
    『自己を探す狂気の提案』
    (柳田聖仙)」
    ということは、
    自己実現に向かわないと、
    PTSDによる認知機能の歪みによる
    擬似問題に引っかかった状態のまま
    身体的に寿命が尽きてしまう…
    ということで、
    そうならないようにしましょう…
    という提案とも言えますね。
    Intéressant(アンテレッサン)
    http://ameblo.jp/kmomoji1010/entry-11559954999.html
    「何かに関係づけることを介して己自身を知ろうとしている」
    そうでないと、
    「[トラウマ]という「[人生]最大の課題」と[主体]的にどう取り組むかという視点が完全に欠けている」
    『主体性がない知識取得の無意味さ…』
    http://amba.to/1z4PWEo
    ということになります。
    実は、私の父方は真言宗、母方は禅宗で、大学院時代の恩師が浄土真宗なので、観察機会があり、なかなか勉強になりました。幸か不幸か自分はカトリックなので、「学ぶ」=「真似して身につける」ことはなくて、そういうふうになっているんだ…と感心して観察していました。比較宗教学です。

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  4. 翠雨PTSD予防&治療心理学研究所

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    >あ*さん
    そもそもがinter-estで、人間存在の要は間にあるのでしたね。実際に会話していても楽しいのはこころがそういう場所にある時です。
    「主体が立ち上がらない発達障害」なんていう見方は面白くなく、間にあるものを傾聴することが忘れられています。間抜けです。
    杏奈のような「自己放棄」による主客未分の「純粋体験」に近づくための方便として宗教的「行」があるのだと思います。なのでこの作品は原宗教的と言えると思います。
    physicalなものとspiritualなものが渾然一体となった世界は新興カルトである心療内科の教義で説明しようとすると木で鼻をくくったようになります。
    いろいろな宗教に触れて育つことが大事な世の中になっているようにも思います。

    返信
  5. あ*

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    >翠雨PTSD予防&治療心理学研究所さん
    「主体が立ち上がらない発達障害」なんていう見方は面白くなく、間にあるものを傾聴することが忘れられています。間抜け」ということもできますね。
    それは、ギブソン心理学的な見方をすると、
    感覚情報処理の個体差によって結果として「暗黙の了解」に差異があるのを
    「文化の違い」あるいは「相手の知的能力の低さ」だと見誤っていることに治療者が気づいていないと言うこともできそうです。以前、関連したことをコメントして
    http://ameblo.jp/kmomoji1010/entry-11984751084.html#c12676005316
    にお返事をいただきました。
    「主体が立ち上がらない発達障害」論者は、治療者のくせに、
    コミュニケーションがうまく行かないのは全部、「自閉症」者はじめ相手が悪いということにしてしまい、日本的な象徴を無視した上に神話学も外しているので、
    初めからラポールなんて成立のしようがなく、治療が普通にスタートしません。そんな滅茶苦茶な治療者の元でも「主体」が立ち上がってくるケースがあるというのは、クライエントさんの自己治癒力の強さを証明していると言えましょう。人間存在の力強さに感嘆し、希望を感じます。
    元々、観察主体さえ無視するような治療者が真っ当なわけがありませんでした。
    以前、貴ブログ記事
    『内省能力がないのはPTSD否認発達障害でっちあげ研究者の方だろう』に
    http://ameblo.jp/raingreen/entry-11403893573.html#c12117666856
    とコメントしました。
    この点は、以前、できなかったコメントを記事
    http://ameblo.jp/aya-quae/entry-11950456482.html
    にしたなかにも書きました。

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  6. 翠雨PTSD予防&治療心理学研究所

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    >あ*さん
    デタラメな治療者の元でも主体性が立ち上がる点に注目すると、見方がガラリと変わり希望が持てますね。人間の可能性というものをもっと信頼すべきなのかもしれません。虐待環境や薬害からでも回復するのですから、生命力には凄いものがあります。
    アフォーダンスですね。
    興味をもった時期がありました。
    間違えて伝えたノーマンという人は、晩年それを認めたそうですね。そして間違って広めてしまったことにより結果的に貢献したとのこと。愚説論者のユング派研究者にもそれを期待します。

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