C.G,ユング」カテゴリーアーカイブ

河合隼雄古墳劣化隠蔽事件同席によるASD(急性ストレス障害)死因説

河合隼雄はなぜ
亡くなったか。
心臓が停止したから。
その前に意識を失い
植物状態に陥ったから

多くの信者は
こんな物理的な説明では
得心できないだろう。
ならば
今こそ
そこに気づくべきではないか。
なぜ倒れたのか。
倒れさせるショックがあったのではないか…
ユング派研究者として
古墳の劣化と
その隠ぺい工作に
直面させられる
これ以上強烈な
インパクトを与えるものは
なかっただろう。
そうでなかった
(何も感じていない)と言うなら
それこそ
河合隼雄を
冒涜していることに
なるだろう。
なんとも思わなかった
はずはない。
古墳はすべて
陰陽五行説にのっとって
作成されている
のだから。
日本人が
世界の中心
(中華民国なんて
名前つけるような
プライド高い国)の
凄すぎる哲学に圧倒され
PTSDにならないように
それと向き合い
取り入れ
必死で
昇華してきた
陰陽五行説
ユングも
現代西洋哲学の不足を
それで補い
バランスのよいものに
変革しようとしていた
東洋文化の華
それが劣化している。
キリスト教色豊かな
ユング心理学を
日本に自然に根付かせるには
陰陽五行説は外せないのは
あきらかなのに
 
手付かずのまま
劣化しようとしている。
モノとしての古墳のみならず
こころとしての研究も同様
かぐや姫がわがままだという
見立てにのっとった論文に
学会奨励賞を
与えてしまった…
これがいつか発覚したら
いつものように
ギャグで
雲に巻けるだろうか…
約一年間の
長い眠りのなかで
どんな夢をごらんになって
おられたのだろうか。
トラウマを克服することなく
『死に至る病』となってしまった。
キェルケゴールは
絶望の取り扱いに注意と警告している。

臨床心理士国家資格化を阻むもの④ 『心的外傷と回復』の日本版がない!

DVシェルターでのバイブル的
書籍

ハーマンの『心的外傷と回復』
中井久夫先生の
訳語ノートによれば…

サバイバー
(survivor)は
元来は
「その後に生きる者」

その後というのは
災厄的なことです。

17世紀の初出は
【アダムとイヴの後に生きる者】
(支配者のいいなりになるのが
気楽とは思えなくなり
自分の頭で考えるようになる
つまり楽園追放
ですね)

ラテン語では
ズバリ!
【ある治世(支配者)の終焉後】

心理療法の難関
【死と再生】
PTSDのサバイバーには
求められているのです。

なるほど
この意義も喪失した
ユング派には
PTSDは理解不能ですね。

精神分析的カウンセリングそのものの
ハーマンは現在の日本のユングよりは
相当レヴェルが高いですが
ご多分にもれず
やはり日本版に書き直す必要
あるでしょう。

ゆっくり書いていきますが

一番わかりやすいのは

タイトルの【回復】です。

わが国では【快復】でなければ
なりません。

回復は二元論
快復は一太極二陰陽

西洋思想と東洋思想
大きな差がまだ残っています。
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臨床心理士国家資格化を阻むもの③ 先祖がえりし講釈師になった日本のユング派

キリスト教の牧師と
チベットの仏教僧

ユングは
牧師の息子ですが
『チベットの死者の書』を
座右の書としました。

PTSD研究家翠雨の日記

ユングは
別に仏教に改宗した
わけではありませんが

魂の研究において
陰陽五行や仏教の存在を
無視し
キリスト教の文化や哲学だけの
閉じられた世界で完結させる
ようなことはしませんでした。

なのに

今の日本のユング派は
ユング以前に
先祖がえりした感じです。

チベットの僧たちが
行うように
集合的無意識のなかにある
魂の一定の法則をつかみ

不安なこころを
そこに回帰させ
ご先祖さまの一員に
名を連ねる安心感を
与えながら

進化再生させる
そんな方法ではなく

牧師のような
講釈師に変貌したタイプが
増殖中
です。

枝雀さんに
あの世から
「やいっ!
おたまじゃくし
かいじゃくし!」と

叱ってほしいです。

       ―くしゃみ講釈より
続きを読む

哲学は哲学者の専売特許ではない

心理療法は

二律背反
あるいは
矛盾の相克の中に

身をおいて
なされるものです。

陰か陽か
ではないから

たちまち
哲学です。

子どもも例外ではありません。
それを言いたくて
宮崎監督は5歳の宗介を
主人公
にし、
ヒロインも同じくらいの年齢の
はちゃめちゃな
ポニョにしたのです。

日本では
【一太極二陰陽】が
リセットの法則ですが

ゲームじゃなくて
死活問題ですから
楽ではありません。

だから
ユングは
心理療法の理想は
ありもしない幸福に導くことではなく
苦痛に耐えられる強さと
哲学的忍耐力を身につけさせることだと
言ったのです。

ポニョも公案そのものですから
【哲学】です。

子どもだって
哲学するのです。

これが
今では
【統合失調症】を経過したと
言われる混乱を克服した
ユングが魂と葛藤して
つかんだ答えです。

(ユングは神経症と呼んでいますが)
続きを読む

臨床心理士国家資格化を阻むもの② 『チベットの死者の書』

臨床の語源は
牧師が死に行く人々の
苦痛や不安をなだめていたこと

ですが

東洋でも同じです。

『チベットの死者の書』
一番はっきり書かれていて

死に行く人に対し
僧が毎日毎日
語りかけるのです。

これから死の旅に出るという
自覚をさせ

誰もが通る道だから
畏れるなと
不安や恐怖を軽減させながら

それでも
襲ってくる不安のイメージ化である
ビジョン・幻覚に対し

こういう恐ろしい魔物が
~って言うだろうけど
無視し、

光の方に飛び込み
一体化しなさい

とか

魂に関する
悠久の研究から得た
莫大なデータをもとに

堂々と語りかけます。

思うのですが…

死者が聴いているのかどうか
私にはわかりません。

しかし
これって
遺族の悲しみやいずれ来るであろう
死の恐怖に対する
教育になっていると
思いませんか?

さらには
素朴で純真なチベット人は
象徴レベルで受け止めるでしょうから
現在の心理学的な問題に対して
自分で取り組む材料としての
心理教育にもなっているのでは?
と感じます。
続きを読む

臨床心理士国家資格化を阻むもの① 臨床

民間資格である
臨床心理士の
国家資格化は

難航しているわけですが

その原因の1つに

「臨床」という名称が
あり

臨床と冠することに
さまざまな理由からですが
難色を示されています。

なぜかなぁ?と
漠然と思っていたのですが

講義中
ふと閃きました。

臨床心理学の【臨床】の語源は
床に臨む(のぞむ)

床はベッド
しかし普通のベッドではなく
死の床です。

クリニカル・サイコロジー

clinicalの語源も【死】
です。

どういうことか?
と言うと

臨床心理学の歴史は
非常に浅く
発展途上の学問なのですが

心理療法が生まれる前は
宗教や哲学、シャーマニズムが
人々の不安や悩みを
解決しようとしていた
わけです。
(現在でも実情は
贔屓目にみつもっても
半々でしょう)

一番の不安は
死にゆく不安です。

これを教会で
牧師がなだめていた
そうです。

我々の仕事は牧師の仕事と
表面的には全く違いますが
【象徴的】には同じなのです。

自己実現には
古い価値観の死と再生
必須で

価値観を変えるのは
死ぬような苦痛を意味しますから。

ところが目

精神科医療は
死を相手にしておらず
自殺者増加という大失態を
演じています。

そのコンプレックス
無意識の大弱点を
突かれて
感情的に猛反発している
とも言えるし、

そっち(臨床心理士)だって
同じ穴のムジナじゃないか

臨床心理学の最大の売り物だった
ユング心理学が
象徴はおろか
分析まで捨てて

発達障害に逃げ込んでいるクセに

うつ病に逃げ込んだ我々と
どこが違うのか

ということではないかな…

と思います。

ちなみに
私は臨床心理士ではないので
この問題に関しての
ご配慮は無用ですよニコニコ
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臨床心理士国家資格化を阻むもの③ 先祖がえりし講釈師になった日本のユング派

キリスト教の牧師と
チベットの仏教僧
ユングは
牧師の息子ですが
『チベットの死者の書』を
座右の書としました。

PTSD研究家翠雨の日記
ユングは
別に仏教に改宗した
わけではありませんが
魂の研究において
陰陽五行や仏教の存在を
無視し
キリスト教の文化や哲学だけの
閉じられた世界で完結させる
ようなことはしませんでした。

なのに
今の日本のユング派は
ユング以前に
先祖がえりした感じです。
チベットの僧たちが
行うように
集合的無意識のなかにある
魂の一定の法則をつかみ

不安なこころを
そこに回帰させ
ご先祖さまの一員に
名を連ねる安心感を
与えながら
進化再生させる
そんな方法ではなく

牧師のような
講釈師に変貌したタイプが
増殖中
です。
枝雀さんに
あの世から
「やいっ!
おたまじゃくし
かいじゃくし!」と
叱ってほしいです。
       ―くしゃみ講釈より

哲学は哲学者の専売特許ではない

心理療法は
二律背反
あるいは
矛盾の相克の中に
身をおいて
なされるものです。
陰か陽か
ではないから
たちまち
哲学です。
子どもも例外ではありません。
それを言いたくて
宮崎監督は5歳の宗介を
主人公
にし、
ヒロインも同じくらいの年齢の
はちゃめちゃな
ポニョにしたのです。
日本では
【一太極二陰陽】が
リセットの法則ですが
ゲームじゃなくて
死活問題ですから
楽ではありません。
だから
ユングは
心理療法の理想は
ありもしない幸福に導くことではなく
苦痛に耐えられる強さと
哲学的忍耐力を身につけさせることだと
言ったのです。
ポニョも公案そのものですから
【哲学】です。
子どもだって
哲学するのです。
これが
今では
【統合失調症】を経過したと
言われる混乱を克服した
ユングが魂と葛藤して
つかんだ答えです。
(ユングは神経症と呼んでいますが)

臨床心理士国家資格化を阻むもの② 『チベットの死者の書』

臨床の語源は
牧師が死に行く人々の
苦痛や不安をなだめていたこと

ですが
東洋でも同じです。
『チベットの死者の書』
一番はっきり書かれていて
死に行く人に対し
僧が毎日毎日
語りかけるのです。
これから死の旅に出るという
自覚をさせ
誰もが通る道だから
畏れるなと
不安や恐怖を軽減させながら
それでも
襲ってくる不安のイメージ化である
ビジョン・幻覚に対し
こういう恐ろしい魔物が
~って言うだろうけど
無視し、
光の方に飛び込み
一体化しなさい
とか

魂に関する
悠久の研究から得た
莫大なデータをもとに
堂々と語りかけます。
思うのですが…
死者が聴いているのかどうか
私にはわかりません。
しかし
これって
遺族の悲しみやいずれ来るであろう
死の恐怖に対する
教育になっていると
思いませんか?
さらには
素朴で純真なチベット人は
象徴レベルで受け止めるでしょうから
現在の心理学的な問題に対して
自分で取り組む材料としての
心理教育にもなっているのでは?
と感じます。

臨床心理士国家資格化を阻むもの① 臨床

民間資格である
臨床心理士の
国家資格化は
難航しているわけですが
その原因の1つに
「臨床」という名称が
あり
臨床と冠することに
さまざまな理由からですが
難色を示されています。
なぜかなぁ?と
漠然と思っていたのですが
講義中
ふと閃きました。
臨床心理学の【臨床】の語源は
床に臨む(のぞむ)

床はベッド
しかし普通のベッドではなく
死の床です。
クリニカル・サイコロジー
clinicalの語源も【死】
です。
どういうことか?
と言うと
臨床心理学の歴史は
非常に浅く
発展途上の学問なのですが
心理療法が生まれる前は
宗教や哲学、シャーマニズムが
人々の不安や悩みを
解決しようとしていた
わけです。
(現在でも実情は
贔屓目にみつもっても
半々でしょう)
一番の不安は
死にゆく不安です。
これを教会で
牧師がなだめていた
そうです。
我々の仕事は牧師の仕事と
表面的には全く違いますが
【象徴的】には同じなのです。

自己実現には
古い価値観の死と再生
必須で
価値観を変えるのは
死ぬような苦痛を意味しますから。
ところが目
精神科医療は
死を相手にしておらず
自殺者増加という大失態を
演じています。
そのコンプレックス
無意識の大弱点を
突かれて
感情的に猛反発している
とも言えるし、
そっち(臨床心理士)だって
同じ穴のムジナじゃないか
臨床心理学の最大の売り物だった
ユング心理学が
象徴はおろか
分析まで捨てて

発達障害に逃げ込んでいるクセに
うつ病に逃げ込んだ我々と
どこが違うのか
ということではないかな…
と思います。
ちなみに
私は臨床心理士ではないので
この問題に関しての
ご配慮は無用ですよニコニコ