器質的問題がないのに
起こる
失立
失歩
失声
…
失神
―今では【解離】と呼ぶのかな?
精神分析が誕生する
きっかけになったのは
アンナの症例
治療の後半
なぜだか
コップから水が飲めなくなった。
公務ができない。
学校に行けない。
一見
テンでバラバラな感じですが
すべて【解離】で説明がつくなんて
なんてシンプルな理論でしょうか。
これも
一即多 多即一
一緒くたの原理です。
華厳経です。
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器質的問題がないのに
起こる
失立
失歩
失声
…
失神
―今では【解離】と呼ぶのかな?
精神分析が誕生する
きっかけになったのは
アンナの症例
治療の後半
なぜだか
コップから水が飲めなくなった。
公務ができない。
学校に行けない。
一見
テンでバラバラな感じですが
すべて【解離】で説明がつくなんて
なんてシンプルな理論でしょうか。
これも
一即多 多即一
一緒くたの原理です。
華厳経です。
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悟りの過程を顕した
【十牛図】の8図は
円相のみ
キリスト教にはない考え方です。
―ユング心理学だけではだめだと
いうのはここでも言えます。
シンプルなマンダラという
捉え方もできますが
【鏡】という発想が
ここでは面白い。
【磨作鏡】まそきん
鏡を磨いて作る。
(こころを研ぎ澄まして
客観性を得る。
自分の人生を大きな視野から
捉えなおす)
牛と
―本来は自己ですが
トラウマと
あるいは環境と
置き換えても
(ひいては一緒ですから)
格闘したから
こころが
鏡のように
何でも
ありのまま
映すように
なってきたのです。
鏡は
「あの人嫌いだから映さない!」とか
「私はきれいに映そう」とか
そういう自己チューではなく
無我ですからね。
やはり
大変でも
死闘しないと
手に入らないんです。
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悟りの過程を顕した
【十牛図】の8図は
円相のみ
キリスト教にはない考え方です。
―ユング心理学だけではだめだと
いうのはここでも言えます。
シンプルなマンダラという
捉え方もできますが
【鏡】という発想が
ここでは面白い。
【磨作鏡】まそきん
鏡を磨いて作る。
(こころを研ぎ澄まして
客観性を得る。
自分の人生を大きな視野から
捉えなおす)
牛と
―本来は自己ですが
トラウマと
あるいは環境と
置き換えても
(ひいては一緒ですから)
格闘したから
こころが
鏡のように
何でも
ありのまま
映すように
なってきたのです。
鏡は
「あの人嫌いだから映さない!」とか
「私はきれいに映そう」とか
そういう自己チューではなく
無我ですからね。
やはり
大変でも
死闘しないと
手に入らないんです。
ギリシア神話の
エディプス王は
スフィンクスの難問を
解きそこないました。
朝は4本足
昼は2本足
夕方は3本足の生き物は
なあに?
そんなもんいるか!
そんなこと言ってたら
トラウマの餌食ですぞ!
ちなみに
わが国では
【如人千尺懸崖上樹】
ポ如 崖の上の
『崖の上のポニョ』が
虎の巻
翠雨お奨めの
参考図書です。
ポニョのお父さんとお母さん
日本人のこころは
華厳の海
観音菩薩みたいな
ポニョの母がそのイメージです。
ギリシア哲学
(ポニョの父)より
ちょっと壮大で難しいですよ。
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古代人は
先祖代々の言い伝えから
人生における魔境の
存在を把握し
(思春期や更年期
厄年みたいなものです)
その年齢になれば
通過儀礼を受けました。
少し間違えれば
死んでしまうような
儀式もありますが
村中でその意味を共有し
支えました。
現代は
個人個人で必要に応じて
しかも
危険に遭遇して
傷ついてから
行われるので
孤独感と危険性
痛々しさは
古代の比ではないでしょう。
一見、高い木や崖から
飛び降りる方が
危険な感じがしますがね。
そして高所から飛び降りる事自体が
目的ではありません。
そのことに伴って
内界で起こる
【死と再生】が
本来の目的です。
【如来】と言いますね。
たとえば阿弥陀如来が
実在するとかしないとか
ではなく
【来るが如し】で
【かのような】ですから
【比喩】であり、
【象徴】としての意味です。
【如人千尺懸崖上樹】
ポ如 崖の上の
であるポニョも
ポニョがいるとかいないとかではなく
と言って単なる絵空事でもなく
家出したい!という
気持ちが
内界からやってくることを
象徴します。
家出したい気持ちを
深く見つめ
【象徴的に家出する】のが
臨床心理学のやり方
なのでしょうね。
つまり
(虐待ケースとかでなければ)
家族から心理的に自立する
ということを意味します。
それは【自己実現】とつながる
橋です。
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古代人は
先祖代々の言い伝えから
人生における魔境の
存在を把握し
(思春期や更年期
厄年みたいなものです)
その年齢になれば
通過儀礼を受けました。
少し間違えれば
死んでしまうような
儀式もありますが
村中でその意味を共有し
支えました。
現代は
個人個人で必要に応じて
しかも
危険に遭遇して
傷ついてから
行われるので
孤独感と危険性
痛々しさは
古代の比ではないでしょう。
一見、高い木や崖から
飛び降りる方が
危険な感じがしますがね。
そして高所から飛び降りる事自体が
目的ではありません。
そのことに伴って
内界で起こる
【死と再生】が
本来の目的です。
【如来】と言いますね。
たとえば阿弥陀如来が
実在するとかしないとか
ではなく
【来るが如し】で
【かのような】ですから
【比喩】であり、
【象徴】としての意味です。
【如人千尺懸崖上樹】
ポ如 崖の上の
であるポニョも
ポニョがいるとかいないとかではなく
と言って単なる絵空事でもなく
家出したい!という
気持ちが
内界からやってくることを
象徴します。
家出したい気持ちを
深く見つめ
【象徴的に家出する】のが
臨床心理学のやり方
なのでしょうね。
つまり
(虐待ケースとかでなければ)
家族から心理的に自立する
ということを意味します。
それは【自己実現】とつながる
橋です。
数年前
「キヨ・ブタで
バッグ買っちゃった!」
なんて言い回しが
流行していると
朝日新聞にありました。
清水の舞台から
飛び降りるつもりで… を
短縮した言い方ですね。
【如人千尺懸崖上樹】
ポニョ 崖の上の
この公案に関係あるのでは?
と思っていたのですが、
説明書きには
やはり【崖】を意識して
造られたものだと
書かれてました。
その舞台に行く前に
出会うのが
この大黒天
赤と黒ですね。
陰陽相殺で
仏教と陰陽五行の
見事な習合です。
そう言えば
寺の入り口の
阿吽の像からして
陰陽でしたね。
法相宗の寺で
ご本尊には観音様が
置かれてありました。
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