明恵上人は
鎌倉時代の高僧です。
鳥獣戯画で知られる
高山寺において
華厳宗中興の祖
とみなされています。
19歳~60歳まで
記された夢記があります。
夢の記録から
彼の修行のあとを偲ぶことができるでしょう。
その内的な成長過程と
PTSDに罹患し
克服しようとしている人たちの
内的成長過程は
重なると
分析心理学では考えます。
宮崎監督の
『崖の上のポニョ』も
華厳満載です。
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明恵上人は
鎌倉時代の高僧です。
鳥獣戯画で知られる
高山寺において
華厳宗中興の祖
とみなされています。
19歳~60歳まで
記された夢記があります。
夢の記録から
彼の修行のあとを偲ぶことができるでしょう。
その内的な成長過程と
PTSDに罹患し
克服しようとしている人たちの
内的成長過程は
重なると
分析心理学では考えます。
宮崎監督の
『崖の上のポニョ』も
華厳満載です。
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ポニョのお母さんは
大きくて
神々しいですね。
父親との対比が
強調されています。
それで
「変だ」とかいう人も
おられるんですが…
監督は
海=無意識
と明言されていますから
無意識のなかの
偉大なものの【象徴】として
あのようなイメージが登場したのでしょう。
仏教では真の自己と言います。
自我と自己という2つ軸をこころは持っているのですが
(だからややこしい!)
お父さんに象徴される
小さな自我と
お母さんに象徴される
大きな自己
です。
ポニョは
人魚姫への違和感から
生まれたのですが、
それはキリスト教への違和感でしたね。
物語全体が華厳めいていますから
やはり
毘盧遮那仏でしょうね。
サンスクリット語の
Vairocana「ヴァイローチャナ」の音訳らしいです。
宇宙仏と言われ
宇宙の真理をすべての人に照らし、
悟りに導く仏です。
大日如来とも呼ばれ
東大寺盧舎那仏
奈良の大仏さまですね。
神道のアマテラス(天照)のイメージも
習合していると思いますが、
これはまた改めてご説明したいと思います。
PTSDなどで
苦海にある人に対して
専門家が変なかかわりをして
(うつ病や発達障碍や人格障害と決め付けて
あきらめさせるなどして)
足を引っ張らなければ
無意識の中の癒しのシステムが作動して
ドラマチックな
物語とともに
生まれ変われるように
なっているのです。
もちろん
この世での話です。
監督も誰もがもつこころに存在する
魔法を表現したと明記されていますよ。
うそだと思ったら
パンフレット見てください!
読売新聞によると
国宝満載の
東大寺「須弥壇」は
初の本格的修理に入るそうです。
東大寺の
法華堂の
正堂には、
本尊である
不空羂索(ふくうけんさく)観音像
があります。
ポニョは
最初海底から家出した時
自力で家出するつもりでしたが、
実際は波に呑まれ
瀕死の状態で
打ち上げられ
頭に硝子瓶をかぶった状態で
ゴミと一緒に大きな網で掬われました。
そして宗介に見つけられ
ガラス瓶を割ってもらいました。
学校教育や福祉で掬われるひとは
そこで掬ってもらえばいいのです。
そこからはみ出し
零れ落ちてしまうような人
自力をつくして瀕死の状態の人をこそ
掬うものが人間のこころの深層にある
と華厳経は教え、
宮崎監督もそんな海の魔法について
描いたのです。
DVシェルターで
子どもの箱庭作品のなかに
このモチーフを見たことがあります。
(大事なものが落ちない網だ(阿弥陀?)と言って
深いことは何も知らないはずですが、
ただシャカリキ(釈迦力?)になって
作ってました
集合的無意識のなかにある
癒しの過程の普遍性に
おもわず手を合わせました。
心の中でですが…
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昨日
華厳宗大本山の東大寺
不空羂索(ふくうけんさく)観音像
のことを紹介した記事で
仏教の理論は何も
修行僧の専売特許ではなく
普通の人のこころも
システム的には
同じだと
だから
『崖の上のポニョ』が
世紀の公案アニメであり、
私もDVシェルターでの
子どもの箱庭作品に
そういうモチーフをみつけて
感動することがあるのだと
書きました。
日本語が大体
仏教的なんです。
【シャカリキ(釈迦力)】
【一緒くた(一即多)】
【ウンザリ(蘊去り)】 例)五蘊皆空
ちょっと駄洒落的に
無意識で異熟し
護ってくれています。
関心がなくても
日本語のシャワーを
いつも浴びて生きてますから
ありがたいことです。
ある日のユングの夢です。
「私は汚い、すすけた町にいた。
冬の夜で、暗く、雨が降っていた。
私はリバプールにいた。
私は何人かのスイス人
―まず6人くらい―と
暗い通りを歩いていた。
私たちは港からやって来つつあり、
本当の町は崖の上にあるのだと感じていた。
私たちはそこを上っていった。
それは私にバーゼルの町を思い起こさせた。
バーゼルでは市場が下の方にあり、
トーテンゲッシュ(死の道)を通って上り、
それは上方の広場、そして、
ペーテル広場やペーテル教会へと通じている。
…」
信じようが信じまいが
望もうが望むまいが
人間は誰でも
どこに住んでいようが
それとは別に
どこか(無意識的には?)
【崖の上】にいることへの気づきでしょう。
気づかなければ平凡な人生になりますが、
気づかされてしまえばある種地獄です。
教会に象徴されるような宗教や哲学に興味をもったり
その結果広い世界に抜け出るには
死の道ともいうべき地獄を通過しなければならないんですね。
それは普通の人が暮らす日常でもあるのですが。
牧師の息子ユングが
禅の【百尺竿頭】に気づいたのは
このころ出会った中国の影響でしょう。
ただ
ユングが百尺竿頭を越えたかどうか…
これはまた別の問題ですから
じっくり考察してゆきましょう。
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読売新聞によると
国宝満載の
東大寺「須弥壇」は
初の本格的修理に入るそうです。
東大寺の
法華堂の
正堂には、
本尊である
不空羂索(ふくうけんさく)観音像
があります。
ポニョは
最初海底から家出した時
自力で家出するつもりでしたが、
実際は波に呑まれ
瀕死の状態で
打ち上げられ
頭に硝子瓶をかぶった状態で
ゴミと一緒に大きな網で掬われました。
そして宗介に見つけられ
ガラス瓶を割ってもらいました。
学校教育や福祉で掬われるひとは
そこで掬ってもらえばいいのです。
そこからはみ出し
零れ落ちてしまうような人
自力をつくして瀕死の状態の人をこそ
掬うものが人間のこころの深層にある
と華厳経は教え、
宮崎監督もそんな海の魔法について
描いたのです。
DVシェルターで
子どもの箱庭作品のなかに
このモチーフを見たことがあります。
(大事なものが落ちない網だ(阿弥陀?)と言って
深いことは何も知らないはずですが、
ただシャカリキ(釈迦力?)になって
作ってました
集合的無意識のなかにある
癒しの過程の普遍性に
おもわず手を合わせました。
心の中でですが…
ある日のユングの夢です。
「私は汚い、すすけた町にいた。
冬の夜で、暗く、雨が降っていた。
私はリバプールにいた。
私は何人かのスイス人
―まず6人くらい―と
暗い通りを歩いていた。
私たちは港からやって来つつあり、
本当の町は崖の上にあるのだと感じていた。
私たちはそこを上っていった。
それは私にバーゼルの町を思い起こさせた。
バーゼルでは市場が下の方にあり、
トーテンゲッシュ(死の道)を通って上り、
それは上方の広場、そして、
ペーテル広場やペーテル教会へと通じている。
…」
信じようが信じまいが
望もうが望むまいが
人間は誰でも
どこに住んでいようが
それとは別に
どこか(無意識的には?)
【崖の上】にいることへの気づきでしょう。
気づかなければ平凡な人生になりますが、
気づかされてしまえばある種地獄です。
教会に象徴されるような宗教や哲学に興味をもったり
その結果広い世界に抜け出るには
死の道ともいうべき地獄を通過しなければならないんですね。
それは普通の人が暮らす日常でもあるのですが。
牧師の息子ユングが
禅の【百尺竿頭】に気づいたのは
このころ出会った中国の影響でしょう。
ただ
ユングが百尺竿頭を越えたかどうか…
これはまた別の問題ですから
じっくり考察してゆきましょう。
宮崎駿監督は
この作品では
海=無意識
と言明しています。
その海の中では
ポニョと妹たちが遊んでいます。
一即多の象徴表現ですね。
一即多 多即一は
華厳経の根本思想の1つです。
要するに
背景にキリスト教がある
『人魚姫』ではなく
華厳思想を背景とした
『崖の上のポニョ』が
描かれているのです。
日本人のこころによりそうには
西洋の心理学そのものではダメで
東洋的に翻訳する作業が必要です。
しかしそれができていないのです。
おまけに【象徴】が使えないと
おっしゃる方が多いのは嘆かわしいことです。
西洋の【象徴】を当てはめようとするから
だとなぜ気がつかないのでしょう。
それで【知的障害】や【人格障害】【適応障害】として
教育するのです。
【傾聴】が心理療法の定石で
薬が使えないわれわれには
【傾聴】しかないのに…です。
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『崖の上のポニョ』の
映画のパンフレットの
【監督企画意図】の頁で
宮崎駿監督は
「…生き物のような海。
魔法が平然と姿を現す世界。
誰もが意識下深くに持つ
内なる海と、波立つ海洋が通じ合う。
…」
と書いておられます。
この絵は
ポニョの父母です。
まず目につくのは
その対比です。
母は海そのもののような
大きな存在で
父はそこに浮かぶ
ちっぽけな人工の舟の上にいる
心もとない存在です。
自分では
目一杯カッコつけてるつもりですが…。
これは父と母というよりは
意識と無意識と考えたらいいでしょう。
(たしかにDV問題では
これは男女の力関係そのものです。
男性は実は女性が怖いのです)
【我考う。ゆえに我あり】とか言いますが、
考う(意識できる)ことはちっぽけな一部分です。
意識を包む無意識の海を
敵に回したら
大変なことになります。
でも逆に
うまく使えば【魔法】が使えると
書いてあるんですね。
そしてそれは特殊な人の話ではなくて
【誰もが持つ意識下の海】についてなんですね。
PTSDに罹患すると
海が大嵐になります。
しかし
【魔法】があるから
あきらめちゃダメだという
メッセージが
この作品にはこめられています。
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