かわいい子犬は殺され
お墓に植えた木で
作った臼さえ
燃やされ
おじいさんの悲しみは
想像を絶しています。
隣人は
どこまで悪人なのでしょう。
しかし…
その灰で花を咲かせることが
できました。
夢に出てきた犬が
教えてくれたのでしたね。
犬を殺されたのが
1つのトラウマだとして…
犬の思い出話や
殺された状況
そのときの傷つきや
理不尽さのみを
話題にして
だんだん慣らしていく方法
(系統的脱感作といいます)も
あるかとは
思いますが
会社の管理体制のストレスで
解離を起こした
運転手の暴走から
起こった列車事故での
被害者の女性は
「こういう方法で
忘れていってよいものだろうか」と
疑問をもちながら
このトレーニングを続けて
おられます。
もしかしたら
自分の人生に
大惨事のトラウマを
位置づける
「物語」を
必要とされているのかな?
と感じ
夢に導かれて
苦痛を昇華する
方法はどうかと
思いました。
夢物語とか
言いますが
イメージや
ファンタジーなんて
子供だましと
思われるかもしれませんが
おじいさんは
満開の花を見て
笑っていますからね。
(苦痛→歓び =昇華)
そして
物語の読み手も
それを自然に
感じますからね。
夢は
現実と非現実
過去と未来
など陰陽をつなぐ
太極のような
位置
にあるのだと
思います。
毎日上映されてますから
ネバーエンディングストーリーですし
「物語」カテゴリーアーカイブ
花咲かじいさん⑨ PTSDにおける自家中毒をやわらげるもの
同じ一匹の犬が
よいおじいさんには
よきものを
悪いおじいさんには
期待はずれのガラクタ
(ゲテモノ·妖怪·欠けた瀬戸物)の
ありかを教えました。
傷ついた人も
充分なこころのまもりが
ある中に置かれると
麻酔が効いているかのように
痛みを忘れて
自己表現します。
自己表現は自己治癒を生み
苦痛は昇華します。
期待はずれのガラクタというのは
よく見ると
PTSDの傷つきそのものみたいです。
壊れているし
怖いし
そのまま表現すると
キワモノ扱いされ
不利益を被ることも
少なくないでしょう。
自己表現に傷つき
そんな表現のおおもとから
断ってしまいたい!
そう思ったら
傷つきばかりが
増幅し
わけがわからなく
なります。
そこが戦場なら
傷口に塩を塗るような
方法しかないと思いますが
もう戦場ではないことを
確認するためにも
人間らしいこころのまもり
のもとで
トラウマを開示することが
望ましいと思います。
【象徴】を使うのは
大きな護り(麻酔)
になる1つの方法
だと思います。
花咲かじいさん⑧ 臨床心理学という名の悪いおじいさん
おじいさんは
純粋なこころの目を
持っていました。
それが
この物語の
始まりです。
『星の王子さま』にも
書かれていますね。
大事なものは
こころでしか
見えないって。
おじいさんの
こころの目がなかったら
このお話は
生まれなかった
のです。
ユングなど
昔の心理学者や
宗教における修行僧は
まじめに
自分の問題と
取り組んで
日々
精進していました。
その結果
個人の問題でありながら
普遍的な問題でもある
ものにたどりつき
また一苦労しながら
著作を残してくれているのです。
それを
忘れて…
心理療法室を作り
箱庭セットをそろえ
絵を描いてもらって
話を聞く
そういうパフォーマンスのみ
真似たのが
今の多くの
心理療法です。
よいおじいさんをまねた
悪いおじいさんさながらに
「今のクライエントは
【象徴】が使えない」
(陰陽五行説知らないんです)
「表現は単なる繰り返しばかりだ」
(【トラウマ】知らないんです)
「一人の人が作ったと
思えないくらいバラバラだ」
(【解離】知らないんです)
「だから発達障害だ」
「発達障害が増えている」
なんて平気で言えるのです。
血税が投入された
立派な治療室で
表現されたものに
ガラクタやゴミを見て
素晴らしい存在である
かぐや姫やポニョを
侮辱し
薬漬けにして
殺してしまう
悪いおじいさんが
増殖中です
花咲かじいさん⑦ 犬に従うおじいさん
悪いおじいさんは(陰)
犬に命令して
宝物を
探させます。
よいおじいさんは(陽)
犬の命令に従って
土を掘っています。
犬(戌)は
馬(午)と寅と
なかま(三合)
です。
【火生土】
火は土を活かします。
火は寅に生じ 午にさかんに 戌に死す
土は午に生じ 戌にさかんに 寅に死す
人間は土気です。
戌は死ぬことによって
土(人間)を生かす
のですから
命のリレーですね。
陰陽五行では
犬は人間の親
なんです。
それで
妊娠五ヶ月目の 戌の日に
腹帯したり
するのです。
新生児の初めての外出に
鍋墨で額に犬と書く
風習が残っている地方も
あるそうですよ
純粋なこころをもった
おじいさんには
拾ってきた犬の
「ここ掘れワンワン」という
先祖の声
(無意識にある知恵からの
ささやき)が
聞こえ
素直に導かれる
それが
ユングの言う個性化の過程
(自己実現)
というものでしょう。
花咲かじいさん⑤ 金気の物語
花咲かじいさん④ ラポールがないとすべては水の泡
よいおじいさんと
悪いおじいさんが
描かれると
なんか善悪が強調されて
お説教みたいですが
本当に強調されているのは
子犬への愛
ではないでしょうか?
よいおじいさんは
子犬を可愛がっています。
死んでしまっても
灰になっても
大事にしています。
大事なものを
いくら傷つけられても
その存在を忘れず
大事に思い続けることが
大事だと言っているような気がします。
PTSDも同じです。
犬も歩けば棒にあたると
言いますが
人間も
理不尽な傷つけられ方を
することがあったりしますね。
しかし瀕死の状態にあっても
自分の傷ついたこころ
(子犬)を
ずっと大事にし
その声を聞きつづけていると
―おじいさんの
ワンワンとほえる声を
うるさく思うどころか
「ここ掘れ」も聞くような
共感性や
夢を大事にする態度は
参考になります。
宝物も【象徴】ですから
人間のこころを輝かせるもの
豊かにするもの
くらいの意味に読んだらよいと
思います―
枯れ木に花が咲くような
奇跡
(心理学では昇華)
が起こるのではないでしょうか。
そんな芸術のような
人生を
ユングは
個性化の過程
(自己実現)と
呼んだのだと思います。
子犬が自分の大切な
子どもや友達だった場合は
ラポールと言います。
おじいさんと子犬
の間にあったような
心の通じ合いがないと
心理療法は無効だというのは
心理学の常識です。
顔も見ずに診断する医者や
箱庭を置かせたり
絵を描かせても
わかる範囲で解釈する心理療法家には
ラポールのかけらもありません。
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花咲かじいさん③ 正法眼蔵『枯木の龍吟』
枯れ木に
花を咲かせましょう
これが
キーワードですね。
まずは
これが先にあって
よいおじいさん(陽)と
わるいおじいさん(陰)と
陰陽五行説を
加味しているうちに
おもしろおかしく
なっちゃったから
(日本人はきっと
ユーモアにあふれた
おおらかな人種
なんでしょう)
最後に
頭の固いひとが
ちょっと
道徳的なお説教を
こめて
完成させたのでは?
と想像します
ちょっとまじめに
しないと
教科書検定
通りませんから
それで
大事なのは
枯れ木に花という
ところですね。
枯れ木は
花をつけないというのが
常識ですが
宗教や哲学は
常識ではどうしようもない
崖っぷちの人の
ためのものですから
発想が逆転しています。
崖っぷちが
リセットのチャンス
だから
普通の人には
わがままに見える
ポニョが
ヒロインになるのです。
正法眼蔵『龍吟』に
似たような考え方が
あります。
「もし枯木にあらざれば
いまだ龍吟せず
…
幾度逢春不変心は
(幾度か春に逢って
心を変ぜず)は
渾枯の龍吟なり」
木の話をしてますが
人間のことです。
活き活きと元気なのも
素敵ですが
枯れないと
(瀕死にならないと)
自覚できない
(龍の声が
聞こえてこない)
と言うのです。
自覚と言っても…
自分とは
何か
どう生きればよいのか
に関する
自覚です。
教えてもらうのではなく
自分で考えるんです。
いくら難しくても。
解答のコツは…
よいおじいさんは
いくら悪いおじいさんに
ひどいめに
逢おうとも
よいおじいさんに徹していれば
自覚できる
ということが1つ。
加害者や善人面した人たちに
対して
「あんなずるいことして
バチもあたらず…」と
うらみたくもなりますが
(うらんでよいのですが)
長い目で見たら
必ず
それなりの結果が
あるように思います。
(最近は答えが出るのが
早くなりましたヨ!)
だから
それはそれとして
自分もがんばる!
これを時々でいいから
思い出すと
よいと思います。
このあと
「宮商角徴羽に
不詳なりと
いへども、
宮商角徴羽は
龍吟の前後二三子なり」
なんて説明が続きますが
宮商角徴羽は
中国
陰陽五行でのどれみふぁそらしど
です。
5つの気は季節や色や方角だけでなく
音階にまで配当されている
という
徹底ぶりです。
道元は日本人ですが
陰陽五行説は当たり前のように
出てきますよ。
2つ目のコツは…
龍吟の調べ(最後に起こる自覚)は
音楽で習うような内容を
はるかに超えてますよと
言ってることでしょうね。
PTSDと闘って
自覚が進んだ方々の
ブログには
だんだん迫力が出てきます。
耳学問ではだめだと言うことです。
大学で教授が
「うつ病や発達障害が増えています」
と言ったり
「かぐや姫=わがままですから
箱庭にかぐや姫の人形を置いた
クライエントに
病院のスタッフが
よってたかって指導強化し
拒食症が治癒しました」
という事例を見せたからといって
それを鵜呑みにするようでは
ダメです。
他の学問では
教養として(?!)それもありですが
臨床心理学の場合は
人間が本当に死んで
いるのです。
命に関わる大切なこと
なんです。
難しいからと言って
わかるところだけ勉強することは
罪なんです。
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花咲かじいさん② 一太極二陰陽のネバーエンディングストーリー
西洋の二元論では
善と悪の戦い
そして
英雄が悪を倒して
ハッピーエンド
となるところ
ですが
子犬をめぐって
よいおじいさんと
悪いおじいさんの
掛け合いが
続きます。
悪いおじいさんの
反省のなさは
『こんなヤツいるか!』
って感じで
半ばパロディーですね。
(でも案外いるんですよね。
だから子どものうちに
教えとかなきゃね)
幼稚園や保育所で
先生も子どもも
まじめなお話として
取り扱いますが
漫才や落語にみられる
ボケと突っ込み
とそう変わらないように
思います。
そして
ここに流れる公式は
インドネシアの
『魔女ランダ』
中国の
『万事人間塞翁が馬』と
同じで
善悪の
ネバーエンディングストーリー
です。
陰陽五行説のリセットの原理である
一太極二陰陽の
法則が
全体を貫いています。
続きを読む
花咲かじいさん① あらすじ
心安らかで堅実に暮らす
心優しい老夫婦が
一匹の白い仔犬を拾い
わが子同然にかわいがって育てる。
あるとき
犬は畑の土を掘りながら
「ここ掘れワンワン」と
鳴き始める。
驚いた老人が
鍬で畑を掘ったところ
金貨(大判・小判)が
掘り出される。
老夫婦は喜んで
近所にも振る舞い物をする。
それをねたんだ隣人夫婦は
無理やり犬を連れ去り
財宝を探させようと虐待する。
しかし
犬が指し示した場所から出てきたのは
期待はずれのガラクタ
(ゲテモノ・妖怪・欠けた瀬戸物)だった。
隣人夫婦は犬を鍬で殴り殺し
飼い主夫婦にも悪態をついた。
わが子同然の犬を失って
悲嘆にくれる夫婦は
犬の死体を引き取り
庭に墓を作って埋める。
そして雨風から犬の墓を守るため
傍らに木を植えた。
植えられた木は
短い年月で
大木に成長する。
やがて夢に犬が現れて
その木を伐り倒して臼を作るように
助言する。
夫婦が助言どおりに臼を作り
それで餅を搗くと
財宝があふれ出た。
再び隣人夫婦は
難癖をつけて
臼を借り受けるが
出てくるのは汚物ばかりだった。
激怒した隣人夫婦は
斧で臼を打ち割り
薪にして燃やしてしまう。
夫婦は灰を返してもらって
大事に供養しようとするが
再び犬が夢に出てきて
桜の枯れ木に灰を撒いてほしいと頼む。
その言葉に従ったところ
花が満開になり
たまたま通りがかった大名が
感動し
老人をほめて褒美を与えた。
このときのセリフは
『枯れ木に花を咲かせましょう』である。
やはり隣人夫婦がまねをするが
花が咲くどころか
大名の目に灰が入り
悪辣な隣人は
無礼をとがめられて
罰を受ける。
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花咲かじいさん④ ラポールがないとすべては水の泡
よいおじいさんと
悪いおじいさんが
描かれると
なんか善悪が強調されて
お説教みたいですが
本当に強調されているのは
子犬への愛
ではないでしょうか?
よいおじいさんは
子犬を可愛がっています。
死んでしまっても
灰になっても
大事にしています。
大事なものを
いくら傷つけられても
その存在を忘れず
大事に思い続けることが
大事だと言っているような気がします。
PTSDも同じです。
犬も歩けば棒にあたると
言いますが
人間も
理不尽な傷つけられ方を
することがあったりしますね。
しかし瀕死の状態にあっても
自分の傷ついたこころ
(子犬)を
ずっと大事にし
その声を聞きつづけていると
―おじいさんの
ワンワンとほえる声を
うるさく思うどころか
「ここ掘れ」も聞くような
共感性や
夢を大事にする態度は
参考になります。
宝物も【象徴】ですから
人間のこころを輝かせるもの
豊かにするもの
くらいの意味に読んだらよいと
思います―
枯れ木に花が咲くような
奇跡
(心理学では昇華)
が起こるのではないでしょうか。
そんな芸術のような
人生を
ユングは
個性化の過程
(自己実現)と
呼んだのだと思います。
子犬が自分の大切な
子どもや友達だった場合は
ラポールと言います。
おじいさんと子犬
の間にあったような
心の通じ合いがないと
心理療法は無効だというのは
心理学の常識です。
顔も見ずに診断する医者や
箱庭を置かせたり
絵を描かせても
わかる範囲で解釈する心理療法家には
ラポールのかけらもありません。