臨床心理士国家資格化を阻むもの② 『チベットの死者の書』

臨床の語源は
牧師が死に行く人々の
苦痛や不安をなだめていたこと

ですが

東洋でも同じです。

『チベットの死者の書』
一番はっきり書かれていて

死に行く人に対し
僧が毎日毎日
語りかけるのです。

これから死の旅に出るという
自覚をさせ

誰もが通る道だから
畏れるなと
不安や恐怖を軽減させながら

それでも
襲ってくる不安のイメージ化である
ビジョン・幻覚に対し

こういう恐ろしい魔物が
~って言うだろうけど
無視し、

光の方に飛び込み
一体化しなさい

とか

魂に関する
悠久の研究から得た
莫大なデータをもとに

堂々と語りかけます。

思うのですが…

死者が聴いているのかどうか
私にはわかりません。

しかし
これって
遺族の悲しみやいずれ来るであろう
死の恐怖に対する
教育になっていると
思いませんか?

さらには
素朴で純真なチベット人は
象徴レベルで受け止めるでしょうから
現在の心理学的な問題に対して
自分で取り組む材料としての
心理教育にもなっているのでは?
と感じます。

臨床心理士国家資格化を阻むもの② 『チベットの死者の書』」への4件のフィードバック

  1. franoma

    「死者の書」ということで、(“mementō …” http://ur0.biz/ApUp が大事すなわち「解離性健忘に逃げ込んではサバイバーになれない」←仙台エリート研修医 http://urx2.nu/AGNN が典型例ということがポイントの一般論ではありますが)こちらに書きます。

    ちょうど私がまだ幼児だった頃(7つの祝いを見ずに)母方の祖父が釣りの最中に急死しました。母方は禅宗なので、法要はドラを鳴らすなど独特でした。私は、その影響があって、小学生の頃は、聖書だけではなく『チベットの死者の書』を熟読していました。そのうち私の私立中学受験の直前に父方の祖父が予想されたとおりに亡くなりました。父は聖書を読む人なので、そのあと、私も聖書を読む時間のほうが多くなりました。いずれも、人は誰しも早晩、死にますから、準備しつつ “carpe diem”( http://urx2.nu/AGMy )で、残された者は(あとを追って死んだりせずに)自分の天寿が来るまで生きます。それは今になって思えば、まさしく「PTSD予防」でした。「PTSD予防教育のなかで身体を大事にすることを教える」=「身体性を取り戻そう」( http://ur0.biz/ApTQ )ということと同じです。

    無意識レベルで如何なる死生観を持っているかは、その人の生育環境と歴史的心身に依存して異なり、極東僻地の日本から見れば、「欧米人」で括ってしまっても、ブリテンから「新大陸」を目指して解離性遁走をした清教徒や新大陸のクエーカー教徒とモルモン教徒…一方、新天地を求めず欧州に残った英国聖公会の人々も違えば、もちろん、カトリックと、ギリシャ正教とロシア正教と…皆、少しずつ違いがあります。それどころか、今では、キリスト教徒をやめてイスラム教や仏教に改宗したり、そうした世界宗教とは縁を切って、キリスト教文化を捨ててケルト文化に回帰しようとしたり…様々な人々がいます。
     そういうなかで、私の元配偶者は、表面的にはプロテスタントでしたが、本人は「アテイスト」=無宗教だと言い張っていました。しかし、神さまなしの仏教哲学を理解するでもなく、私の父の葬儀においては真剣に手を合わせてはいましたが、葬儀の場で私の親類縁者に自分の存在をアピールすることばかりに意識が行って(←自我肥大を起こして)おり、兄や私、孫にあたる我が家の愚息に対しては何ら気遣うことがないどころか、兄は喪主だし私は裏方で振る舞いなどが滞りなく行き渡っているかチェックしたり会葬者に挨拶したりせねばならないので「悪いけど待っててね」と私が言っても、「会葬者として恥ずかしくない振る舞いをするには何をどうするのか一緒にいて説明しろ」とか、会葬者との雑談を通訳しろとか無理難題を言うし、愚息は会葬者の物々しい雰囲気が怖くて号泣するし、しっちゃかめっちゃかでした。
     ひとえに「仏教」と言っても宗派によって葬儀の仕方には大きなバラツキがあり、浄土真宗の高僧であった蓬茨霊運教授の葬儀では、乳児だった愚息を連れて伺ったところ、厳かでありながら物々しさはなく、愚息も素晴らしい(=魂を揺さぶる)声明に心地よくなって上機嫌で謹聴し、そのうち、すやすや寝てしまいました。「物々しい」のと「厳か」なのは全然、違いますね。乳幼児は、そういうことには素直に反応します。

    話は変わって、付け足しです。「エンパスとサイコパスは同じコインの表裏」( http://urx2.nu/AGOh )と指摘したら、私が「フレンドリー」ではなく敵意を持っていると感じられたブロガー女史は、最近のブログ記事を拝読すると、ニューエージサイエンティスト系の御仁のようです。すなわち、「幽霊( http://urx2.nu/AGOk )が見える人は精神障害だ」とは考えない点はスピリチュアルな理解として極めて結構なのですが、「陰陽混乱( http://urx2.nu/AGOd )状態とは如何なるPTSD現象か?」については、考察なさったことがないようです。
     ニューエージ・サイエンティストは、野蛮なアングロサクソン( http://urx2.nu/AGOt )を後追いするkyupin( http://urx2.nu/AGOz )さんよりは真っ当なので、彼らは、陰陽混乱とは何か、エンパスとサイコパスは同じコインの表裏であることなどを早晩、理解なさるでしょう。

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    1. wpmaster

      小学生の頃から、聖書や『チベットの死者の書』を熟読されては、本邦ユング派も歯が立ちません。
      知識だけではなく、実践つきですしね。

      プロテスタントもチベット仏教も、死にゆく人たちのこころをなだめながら、スプリングボードを提供していたんですよね。
      それが臨床心理学の「臨床」の語源です。
      生きている人が、こころのなかで死と再生を成し遂げるときに、私は立ち会うことができるのですから、産婆みたいな司祭みたいな立ち位置なのです。
      神殿は砂箱で、そこに神さまが降り立つのです。
      それを邪魔しないことですね。

      現代は、「○教」に嵌め殺さなくてもよいので、自分がどういう宗教観をもっているのかなんとなく知っていて、それを経典に行動を考えるとよいですね。
      仏教の場合は「殺仏殺祖」が正しく、更新してゆかねばならないわけですが、頭のおかしな人に聞かせると自我肥大をおこされる危険な思想なので、難しいところです。

      無碍にキリスト教を否定すると、ケルトの亡霊が悪さすることもあるようで、無意識は面白いです。

      返信
  2. franoma

    「無碍にキリスト教を否定すると、ケルトの亡霊が悪さすることもある」というのは、仰るとおりです。無意識のなせる技であるわけですが、哲学的に表現しますと、キリスト教文化を捨てる際に、キリスト教では絶対に外せない “caritas”( http://urx2.nu/AGRu )= “the principle of charity”( http://bit.ly/2hGv8Gz )をも外してしまい、ケルト文化のおどろおどろしいオカルト側面を蘇らせてしまうということです。ご自分の都合が悪くなるとオカルト側面が顕著になる精神科医でおわします神田橋医師やkyupin( http://urx2.nu/AGRD )医師と同じことです。要するに、我意が通せなくなるとオカルト的になって逃げるということです。困りますね。

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