香山リカが今度は泰葉さんを精神病扱いのPTSD解離診断 2件の返信 泰葉さんご立腹は ごもっともです。 国民をみんなうつ病にしようとする気概は まだ衰えていないようですね。 テレビで 誤診を煽り 差別させるような ヘイトスピーチやめて下さい。
あ*=franoma 2017年11月17日 11:34 香山リカ教授は、人道上の罪を犯しているけれども「犯罪者」ではない件につき、 駅弁祭りさんのブログ記事 https://ameblo.jp/blueingreen1/entry-12328640473.html にコメント No. 1「犯罪者にならないように気をつけましょう。」 を投稿しました。 「公衆の面前で素っ裸になって走り回る男のその行為を、 個性と見るか、過ちと見るか」という 「個性」と「過ち」という二項対立で論じることには、 初めから無理があると思われます。 英国では、公衆の面前で素っ裸になって走り回り、 社会に警告を与える必要がある問題についてアピールする横断幕を多くの人に見てもらったりします。いわゆるストリーキングですね。全裸で公道を走り回る行為は「犯罪」なので、警察官が逮捕します。逮捕されるまで束の間の政治的アピールだと知っていて実行するのは、当人の「個性」と言えるでしょう。後になって、当人が「あれは若気の至りで、過ちだった。他のアピール方法だってあったのに」と考え直すのも当人の「個性」で起きる反省です。 それとは対照的に、草なぎ剛さんが自宅と間違えて公園で素っ裸になったのは、明らかに「過ち」ですね。公園だという自覚があれば、裸にならなかったし、警察に保護されることもなかったからです。 「自分には理解のできない他人の意図」を、 (1)「自分だったら、ああいうことはしない愚かな表現」=「過ち」と評価するか、 (2)「世の中には、いろんな人がいるんだなあ…どういうつもりなのか」=「個性」つまり多様性の一つと捉えるか、 それは評価者の自由です。(2)と捉える人は大らかなのでしょうが、 (1)の評価を下す人が「心が狭い」として非難される謂れもないでしょう。 (1)の評価を下して、その表現者に対して大衆がバッシングを行うように煽る行為をしたら、それは、人道上の罪と言えますが、それも「犯罪」ではありません。よく香山リカさんがなさっていますね。 香山リカさんのなさりようとは違い、その表現者をターゲットにして集団ストーカー行為を組織して攻撃を行なった場合は、人道上の罪であるばかりでなく、証拠不十分で「完全犯罪」であるとしても「犯罪」と言えます。PTSD発症リスクを負わせる行為だからです。しかし、被害者は、証拠不十分で立件できない限り、提訴したら被害妄想だと言われて精神病院にぶち込まれて終わってしまうから、泣き寝入りですよ。今、我々が置かれた状況がそれです。香山リカさんは、人道上の罪を犯しますが、犯罪者ではないのです。そこが大事です。 あ* 2017-11-15 20:31:55 ===コメント No.1 おわり=== そのあと「通りすがり」を自称する人がコメントしたので、 コメント No. 5「通りすがりさんのコメントについて…」 を書きました。 傍から失礼します。 「中身がない一文を5行くらいにして書くブログ多いです。なんでも、その方が読みやすいとされていてアクセス数が伸びる技だそう」 という表現のうち 「一文を5行くらいにして書くブログ多いです。なんでも、その方が読みやすいとされていてアクセス数が伸びる技だそう」という部分は、現象学につながる観察事実ですから、多くの人々が共有=何らかの合意形成のベースになるでしょう。 一方、「中身がない」というのは、受け手が勝手にそう思っただけです。 (1)受け手が勝手にそう思って「そういうブログは読まない」と決めるのは受け手の自由です。 (2)「私は、あれは中身がない」と思ったという感想を公けに表現するのも自由です。 古典的な文学ではない「ケイタイ小説」にもレーゾンデートルがあるので、ネット空間で自由に流通させたら良い表現です。しかし、学校で採用する教科書には、中身のないライターさんに書かせたものを載せたら教育にならないのでダメです。光村図書に実例があり、他所さまのブログにその件でコメントをしたことがあります。 https://ameblo.jp/midori-1972/entry-12323487689.html#cbox 小説といえば、百田尚樹さんの批判は、 藤原敏史さんが散々なさって正論ですが、嫌われます。 井上達夫さんも批判なさいましたが、あのような表現は、尊敬を集めます。 批判も、それを行なう当人の表現ですし、 批判の内容が妥当でも「ああいう表現は私は嫌いだ」というのも受け手の自由です。 「支離滅裂な超長文で読み手のことを全く考えていないブログ」も 表現なので、通りすがりの人がとやかく言うことではありません。 読み手のことを考えて書くようになってしまうと、ブログの価値は半減しますよ、本音が出てこなくなりますから。実は、私に、そうしろと示唆してきた「精神科医」がいたのですが、大きな間違いです。「統合失調症」の初期症状を見極めたいというご意向だったので、「統合失調症」の初期症状を見極めたいなら、なおさら 「支離滅裂な超長文で読み手のことを全く考えていないブログ」をやめさせてはダメなのですが、そういうことが理解できない「精神科医」だったのでしょう。 あ* 2017-11-17 09:09:45 ===コメント No.5 おわり=== 「統合失調症」誤診については、 https://ameblo.jp/morizononaika/entry-12327584667.html#cbox にコメント No. 1 ■そう言っては何ですが… を投稿しました。 コメント内容: 栄養療法で治ってしまうのは、 最初の診断が間違っているからですよ。 森島祐子(著) 『そのまま使える 病院英語表現5000 第2版』(2013年、医学書院)という本があります。その問診を実行したら、日本語でやろうと英語でやろうと、心療内科や精神科では、DSM診断にしかならないことが確実な悪書です。 こんな問診をする精神科医は「頭がおかしい」と断言できます。 なぜ誰も指摘しないのかは、私にとっては謎ですが、 (1)筑波大学にいくと何故か「統合失調症」になりやすい。 (2)晋精会メンバーの病院で「躁うつ病」ということにされたニュージーランド人青年が十日ほどの身体拘束で落命。 といったことと同根なのでしょう。 DSM診断をやめないと死屍累々ですね。 筑波大学にいくと何故か「統合失調症」にされやすいので、 栄養療法ができる医療機関に転医すると良いですね。 あ* 2017-11-17 07:32:41 ===コメント内容おわり=== DSM診断をやめないと死屍累々ということで、拙ブログ記事 https://ameblo.jp/aya-quae/entry-12329052629.html を書きました。 返信 ↓
翠雨 投稿作成者2017年11月17日 15:16 駅弁祭りさんは、絡まれやすいみたいですね。 削除した記事も、みなおもしろいと思っていたのに、「悪意を感じる」とコメントした人がいました。メッセージも送られてきたので、悩みながら削除されたようですね。 持論に同調を求めようとした「通りすがり」さんは、適当にあしらわれましたが、ああいうことが続くと、書いておられるように自由に表現できなくなるので、気の毒なことです。 改行の多いブログを駅弁祭りさんに批判させようとしているのには、ある種(撃たせる)のストーカー心性を感じますし、駅弁祭りさんの愛読書こそが、通りすがりさんにかかれば、すべて支離滅裂で中身がないものにされてしまいます。難解なものを端的に表現できればよいのでしょうが、ブログにそんな厳しい目をむけるなんてどうかしています。あのコメントには、DSM流のあらっぽさを感じました。 提示された素材に対して、「二項」という切り口で丁寧に説明されたのは、適切で、そういう話し相手が、駅弁祭りさんには必要なのだといつも思っています。 返信 ↓
香山リカ教授は、人道上の罪を犯しているけれども「犯罪者」ではない件につき、
駅弁祭りさんのブログ記事
https://ameblo.jp/blueingreen1/entry-12328640473.html
にコメント No. 1「犯罪者にならないように気をつけましょう。」
を投稿しました。
「公衆の面前で素っ裸になって走り回る男のその行為を、
個性と見るか、過ちと見るか」という
「個性」と「過ち」という二項対立で論じることには、
初めから無理があると思われます。
英国では、公衆の面前で素っ裸になって走り回り、
社会に警告を与える必要がある問題についてアピールする横断幕を多くの人に見てもらったりします。いわゆるストリーキングですね。全裸で公道を走り回る行為は「犯罪」なので、警察官が逮捕します。逮捕されるまで束の間の政治的アピールだと知っていて実行するのは、当人の「個性」と言えるでしょう。後になって、当人が「あれは若気の至りで、過ちだった。他のアピール方法だってあったのに」と考え直すのも当人の「個性」で起きる反省です。
それとは対照的に、草なぎ剛さんが自宅と間違えて公園で素っ裸になったのは、明らかに「過ち」ですね。公園だという自覚があれば、裸にならなかったし、警察に保護されることもなかったからです。
「自分には理解のできない他人の意図」を、
(1)「自分だったら、ああいうことはしない愚かな表現」=「過ち」と評価するか、
(2)「世の中には、いろんな人がいるんだなあ…どういうつもりなのか」=「個性」つまり多様性の一つと捉えるか、
それは評価者の自由です。(2)と捉える人は大らかなのでしょうが、
(1)の評価を下す人が「心が狭い」として非難される謂れもないでしょう。
(1)の評価を下して、その表現者に対して大衆がバッシングを行うように煽る行為をしたら、それは、人道上の罪と言えますが、それも「犯罪」ではありません。よく香山リカさんがなさっていますね。
香山リカさんのなさりようとは違い、その表現者をターゲットにして集団ストーカー行為を組織して攻撃を行なった場合は、人道上の罪であるばかりでなく、証拠不十分で「完全犯罪」であるとしても「犯罪」と言えます。PTSD発症リスクを負わせる行為だからです。しかし、被害者は、証拠不十分で立件できない限り、提訴したら被害妄想だと言われて精神病院にぶち込まれて終わってしまうから、泣き寝入りですよ。今、我々が置かれた状況がそれです。香山リカさんは、人道上の罪を犯しますが、犯罪者ではないのです。そこが大事です。
あ* 2017-11-15 20:31:55
===コメント No.1 おわり===
そのあと「通りすがり」を自称する人がコメントしたので、
コメント No. 5「通りすがりさんのコメントについて…」
を書きました。
傍から失礼します。
「中身がない一文を5行くらいにして書くブログ多いです。なんでも、その方が読みやすいとされていてアクセス数が伸びる技だそう」
という表現のうち
「一文を5行くらいにして書くブログ多いです。なんでも、その方が読みやすいとされていてアクセス数が伸びる技だそう」という部分は、現象学につながる観察事実ですから、多くの人々が共有=何らかの合意形成のベースになるでしょう。
一方、「中身がない」というのは、受け手が勝手にそう思っただけです。
(1)受け手が勝手にそう思って「そういうブログは読まない」と決めるのは受け手の自由です。
(2)「私は、あれは中身がない」と思ったという感想を公けに表現するのも自由です。
古典的な文学ではない「ケイタイ小説」にもレーゾンデートルがあるので、ネット空間で自由に流通させたら良い表現です。しかし、学校で採用する教科書には、中身のないライターさんに書かせたものを載せたら教育にならないのでダメです。光村図書に実例があり、他所さまのブログにその件でコメントをしたことがあります。
https://ameblo.jp/midori-1972/entry-12323487689.html#cbox
小説といえば、百田尚樹さんの批判は、
藤原敏史さんが散々なさって正論ですが、嫌われます。
井上達夫さんも批判なさいましたが、あのような表現は、尊敬を集めます。
批判も、それを行なう当人の表現ですし、
批判の内容が妥当でも「ああいう表現は私は嫌いだ」というのも受け手の自由です。
「支離滅裂な超長文で読み手のことを全く考えていないブログ」も
表現なので、通りすがりの人がとやかく言うことではありません。
読み手のことを考えて書くようになってしまうと、ブログの価値は半減しますよ、本音が出てこなくなりますから。実は、私に、そうしろと示唆してきた「精神科医」がいたのですが、大きな間違いです。「統合失調症」の初期症状を見極めたいというご意向だったので、「統合失調症」の初期症状を見極めたいなら、なおさら
「支離滅裂な超長文で読み手のことを全く考えていないブログ」をやめさせてはダメなのですが、そういうことが理解できない「精神科医」だったのでしょう。
あ* 2017-11-17 09:09:45
===コメント No.5 おわり===
「統合失調症」誤診については、
https://ameblo.jp/morizononaika/entry-12327584667.html#cbox
にコメント No. 1 ■そう言っては何ですが…
を投稿しました。
コメント内容:
栄養療法で治ってしまうのは、
最初の診断が間違っているからですよ。
森島祐子(著)
『そのまま使える 病院英語表現5000 第2版』(2013年、医学書院)という本があります。その問診を実行したら、日本語でやろうと英語でやろうと、心療内科や精神科では、DSM診断にしかならないことが確実な悪書です。
こんな問診をする精神科医は「頭がおかしい」と断言できます。
なぜ誰も指摘しないのかは、私にとっては謎ですが、
(1)筑波大学にいくと何故か「統合失調症」になりやすい。
(2)晋精会メンバーの病院で「躁うつ病」ということにされたニュージーランド人青年が十日ほどの身体拘束で落命。
といったことと同根なのでしょう。
DSM診断をやめないと死屍累々ですね。
筑波大学にいくと何故か「統合失調症」にされやすいので、
栄養療法ができる医療機関に転医すると良いですね。
あ* 2017-11-17 07:32:41
===コメント内容おわり===
DSM診断をやめないと死屍累々ということで、拙ブログ記事
https://ameblo.jp/aya-quae/entry-12329052629.html
を書きました。
駅弁祭りさんは、絡まれやすいみたいですね。
削除した記事も、みなおもしろいと思っていたのに、「悪意を感じる」とコメントした人がいました。メッセージも送られてきたので、悩みながら削除されたようですね。
持論に同調を求めようとした「通りすがり」さんは、適当にあしらわれましたが、ああいうことが続くと、書いておられるように自由に表現できなくなるので、気の毒なことです。
改行の多いブログを駅弁祭りさんに批判させようとしているのには、ある種(撃たせる)のストーカー心性を感じますし、駅弁祭りさんの愛読書こそが、通りすがりさんにかかれば、すべて支離滅裂で中身がないものにされてしまいます。難解なものを端的に表現できればよいのでしょうが、ブログにそんな厳しい目をむけるなんてどうかしています。あのコメントには、DSM流のあらっぽさを感じました。
提示された素材に対して、「二項」という切り口で丁寧に説明されたのは、適切で、そういう話し相手が、駅弁祭りさんには必要なのだといつも思っています。