『 風の歌を聴け』の冒頭の
架空の作家の引用は
『正法眼蔵』の「生死」を思わせる内容です。
「この生死は、すなはち仏の御いのちなり。これをいとひすてんとすれば、すなはち仏の御いのちをうしなはんとする也。これにとどまりて生死に著すれば、これも仏の御いのちをうしなふなり。…いとふことなく、したふことなき、このときはじめて仏のこころにいる。ただし、心を以てはかることなかれ、ことばを以ていふことなかれ。ただわが身をも心をもはなちわすれて、仏のいへになげいれて、仏のかたよりおこなはれて、これにしたがひもてゆくとき、ちからをもいれず、こころをもつひやさずして、生死をはなれ、仏となる。」
「仏となるに、いとやすきみちあり、もろもろの悪をつくらず、生死に著するこころなく、一切衆生のために、あはれみふかくして、上をうやまひ下をあはれみ、よろずをいとふこころなく、ねがふ心なくて、心におもうことなく、うれふることなき、これを仏となづく。」
仏を自己(セルフ)と読めば
単純明快でしょう。
集合的無意識における
自我と自己のことを言っているにすぎません。
井戸というのは
集合的無意識の「感官」でしょう。
煙突のような「感官」を
磨がけば
フラッシュバックのような40もの断章が
1つの意味をもったものとして
理解できるようになるわけです。
風は
既述の
「如人千尺懸崖上樹」の模範解答における
「ちんちろりん戦法」で
ジブリは
風間俊と名付けてますね。
こういう人を助けて握手するような人は
自己実現モデル
フラッシュバックくらいは
病気のサインではありません。
見るようにもなるわけです。
夢も自己実現へ至る道の1つですが
ドリーム号が
呑んだくれ続けたバーのある
意識をぼんやりさせないと
大事なことが見えないことの譬え
神戸まで行かなくなったというところで
物語が終わっています。
表現しつくされ
自分なりの哲学が獲得できたので
村上春樹は
自分の「ものさし」と言う。
必要がなくなったからだと思いますが
かぐや姫の物語より「固着と退行」のメカニズム
こころのケアについての
未来を予測していたかのようにも思われる
意味深な表現です。