大阪市立
桜宮高校バスケットボール部の
男子生徒が
顧問だった男性から
暴行を受けて自殺した問題で
市が遺族に支払った
賠償金の半額を
元顧問の男性に求めた
訴訟の判決が
大阪地裁であり
裁判長は
元顧問の責任を認め
請求通り4361万円の支払いを命じました。
裁判所も
PTSD事件をきちんと裁けるようになってきたみたいで
このくらいのわかりやすい事件でやっとのことですが
何よりです。
世間には
自殺に至らなかった生徒も
潜在的にたくさんいて
PTSD発症リスクに苦しんでいます。
アメブロ記事
https://ameblo.jp/raingreen/entry-12353415344.html
を拝読し、
「世間には
自殺に至らなかった生徒も
潜在的にたくさんいて
PTSD発症リスクに苦しんでいます」
ということで(長大になるので)こちらに書きます。
『他人への偽善、隣人への無関心』 | 気まぐれ徒然日記
https://ameblo.jp/niou-blog/entry-12353442410.html
という記事がありました。
長くなるので、本文は上述のブログ記事をお読みいただくことにして、そのブログ記事を自分の子どもが書いたと仮定して、コメントを書いてみました。
「僕は、見て見ぬ振りが上手くなった」のではサバイバーズギルトを負いますので、再考をお奨めします。
「見ると心が痛むことはたくさんある」のがPTSDの世紀ですから。
…という点がキモです。
コメント内容:
「大人になるって、しばしば”大人しくなる”という風に使われるみたい」ですか?
本来の意味では、「軽率に動かない」ということではないでしょうか?
「及ぶ範囲でしか、手を差し伸べてあげられない」のは当然ですが、
「手を差し伸べる」という表現を使うのは、
いわゆる「メサイア・コンプレックス」で動く状態ではありませんか?
相手と自分が同じ人間として認め合っている状態であれば、
「どうやって手を差し伸べることができるだろう?」ではなく
「今、私にできることは何だろう?」という問いになるでしょう。すると、「今の自分に介入する余地があるのか?」ということになるわけです。したがって、「今の自分に介入する余地がない」ならば、冷静&理性的に(=「介入」は我意を通すことにしかならないと)判断して、介入を断念します。それができないようでは、「我意を通せば、道理が引っ込む」ことになり、小手川ゆあ( https://bit.ly/2ocIBq3 )『Anne・Freaks』(2000-2002年、「月間少年エース」、角川書店)
https://bit.ly/2CpAxr2
に出てくる女性警視正のようになってしまうでしょう。それが誰であれ、
「我意を通せば、道理が引っ込む」場合、
我意を通す人物は、集合的無意識の無思想を体現しています。なので、第三者から見ると「クルクルパア」なのです。
溺れている人に対して
「今、私にできることは何だろう?」という自問に「自分には介入する力がないので救援を呼ぼう」とならず自分のその時の歴史的身体を活かして「介入する余地がある」という判断であれば、
溺れている相手に手が届くなら抱き上げるとか手を引張って岸に誘導するとか、手が届かないなら救命具を投げてみるとか、惻隠の情で自ら飛び込んで救命を試みるとか…ということになるでしょう。
冒頭で例に上げられたお子さま相手の場合は、
「ちょっとして振り返ると親に怒られてるのが目に入った」わけで、
(1)惻隠の情によって(=無我の境地で)駆け寄り、「不躾で申し訳ありませんが、私の要らぬお節介のせいでしょうか?」と状況を訊ねる。あとは、お子さまが理不尽に無闇に叱られないように、「今、私にできることは何だろう?」と考えつつ対処する。
(2)無我の境地で駆け寄るという行動が取れなかった場合、それとなく近くを通り、本当に自分の要らぬお節介のせいで、お子さまが叱られているのか?…解る範囲で聞き耳をたてる(←相手のプライバシー権の侵害)。
(3)「自分の要らぬお節介のせいで…」なのか否か(相手のプライバシー権の侵害をしつつ)知りたいのは自分の「エゴ」であることを自覚して、起きた現象全体を考察して現象学を進める。
(4)自分の平生底を崩すことなく現象学を進めるプロセスで
“Introspection”
“extrospection”
が車の両輪のように働いて、自分の歴史的身体が形成されて、かけがえのない当人の人生が組み立てられる。
こうした正常なプロセスを経ず「加害恐怖」に陥るケースは、未治療PTSDです。健康な人は、自分の平生底を崩すことなく現象学を進めるプロセスで
“Introspection”
“extrospection”
が車の両輪のように働いて、自分の歴史的身体が形成されて、かけがえのない当人の人生が組み立てられるものです。社会から評価されるか否かは無関係です。成り上がりも成り下がりもしないのが道教の極意です。
「僕は、見て見ぬ振りが上手くなった」のではサバイバーズギルトを負いますので、再考をお奨めします。
「見ると心が痛むことはたくさんある」のがPTSDの世紀ですから。
人間らしい人間(←解離していない全人)が見て心を痛めるしかない状況は、そこにPTSD問題があるからです。素直に考えれば、心をいちいち痛める人がバカなのではなく、心をいちいち痛めることができることは、無垢な心を失っていないだけですから
「大人になれよ」
という勘違いには流れません。
「だからといって、見捨てることもできない」のは、人間らしい人間(←解離していない全人)が見て心を痛めるしかない状況=PTSD現象の最中であることを示しているだけです。心を痛めることがないように「ハッピードラッグ」路線に誘導するのが “Comfortably Numb”(©︎ Pink Floyd)ふうに「無感覚」に持って行く https://bit.ly/DrKyupinParanoia はじめ晋精会 https://bit.ly/ShinseikaiT4 の皆さま&晋精会を批判なさらない https://bit.ly/DSMfaction 「発達障害論」詐欺の神田橋医師らや「愛着障害」詐欺の飛鳥井望、「アスペ」にオキシトシンの笠井清登教授らを含め東京大学の精神科医だけでなく心理系や薬学系も巻き込んだ
https://bit.ly/menuForJap
です。
ヒトが出てくる現象学は必然的にPTSD現象学になります。
「見ると心が痛むことはたくさんある」のがPTSDの世紀である事実を共有して、
自分の平生底を崩すことなく現象学を進めるプロセスで
“Introspection”
“extrospection”
が車の両輪のように働いて、自分の歴史的身体が形成されて、かけがえのない当人の人生を組み立てるなかで、
世界人権宣言に則り、
「誰の子どもも殺させない」ために、
「今、私にできることは何だろう?」と自問しつつ最期の日までサバイバルしましょう。皆が平穏死を迎えられるように。
___コメント内容おわり___
なお、
全人類に人格権を(←世界人権宣言)ブログは、
http://franoma.jugem.jp/
「https://…」でないと気持ち悪い人は、以下のリンクからどうぞ。
https://franoma.jugem.jp/
平穏死ブログは、
https://blog.goo.ne.jp/franoma/
に書いています。
“Comfortably Numb”(©︎ Pink Floyd)ではなく、“Comfortably” ではない “Numb”(©︎ Linkin Park)を表現された方は、自ら “death by hanging” を “acting out” =「解離はトラウマの影」ということで(他害ではなく)自害=PTSD解離自殺なさってしまいました。「うつ病」ラベリングでなければ、そういう悲劇は予防できたので、
https://bit.ly/NishibeSusumuSuicide
を機に「うつ病」ラベリング復活を狙っている人々は、香山リカ立教大学教授はじめ「害悪心理学」に陥っています。
「見捨てることもできない」という口実で攻撃してくる「なんちゃって専門家」をブロックし、見放すことが不可欠です。
そうですね。
苦しんでいる子たちがたくさんいる現実をどうするかという段階で、こういうことが問題になります。
「そんなこと言ったって、誰が対応するんだよ?」というような乱暴なコメントを寄せる御仁もいましたから。
このようなことを具体的に話し合うような場があれば、PTSD予防教育になりますね。