朱子とベルクソン純粋持続する時間と純粋体験

本日は

朱子のお誕生日だそうです。

日本の禅宗のお坊さんの言葉のようですが

中国の影響下2回目の時期

大変な秀才だった朱子の言葉としたかったのでしょうか。

5歳前後の頃には

「宇宙の外側はどうなっているのか」と考えつめ

「為己の学」(自分の生き方の切実な問題としての学問)に方向づけられ

禅宗に傾斜した時期を経て

— 「体認」(身をもって体得すること)の思想はここから

19歳の春に科挙に合格し学問に没入

— 従来の経書解釈に疑念

朱子学の学祖となり

ご多分に漏れず

激しい弾劾に晒され

不遇の中で生涯を閉じた。

同じく時間論で有名な

時計で測れるような時間じゃなくて

分けることができない 純粋持続 が特徴

— 流れるような意識 を 内側から体験

「持続の相の下に身を置く ( se replacer au fond de la durée) という

— 持続の中に じゃなくて

—— 確かに置きようがない

ベルクソン的直観

ここから自由意志が生まれる。

ベルクソンのお誕生日でもあります。

教授選では落選続きでしたが

一度教壇に立つと

— 偶然、急に亡くなる人がいて

大変な人気で

講義室を超えて

その学際的な理論は

— 失語症を物質と表象の中間イマージュとして心身問題に等

—— 内から見ればPTSD症状@できなくなるシリーズ

海外まで広がり

現在も持続中のようです。

行動力のある者のように考え☯思考力のある者のように行動せよ は

『時間と自由』(1888)

東洋的回文ですね。

経験も分けられないのでした。

逆に

器用に分けてしまうのが

解離@無意識の防衛機制

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