幼い頃に母を失い
継母との関係が悪すぎるので
引き離すため
15歳で江戸に奉公に出され
非常に苦しい生活をしていたが
25歳ころから
俳諧師として頭角を現すようになる。
— 個性化の過程
57歳のときの
一年間の出来事を詠んだものが
素朴に詠んだものを
— 生まれたばかりの長女の死去など
作品にしようと推敲中に亡くなる。
没後25年に刊行されたものです。
こころのケアの作用があった
苦難のなか俳諧と出会って
その表現のなかで自己実現
俳諧ですが
当時の俳諧師は
修業中に俳諧行脚するなど
雲水のようであり
俳諧や古典
そして当時の風俗や文化を貪欲に学ぶ。
— PTSDのお勉強
とても宗教的です。
帰依が中心を占めているといわれている。
よく知られた代表的な句は
おおらかな童話のようなイメージですが
名月を取ってくれろとなく子哉
這へ笑へ二ツになるぞけさからは
雀の子そこのけ/\御馬が通る
ゆうぜんとして山を見る蛙哉 …などなど
俳諧師となっても
40代に入るまでは生活は不安定なままで
51歳の時になってようやく定住することになり
俳諧師としても全国的に名が知られるようになった。
52歳にして結婚を果たしても
初婚の妻との間の4人の子どもは全て夭折
妻にも先立たれ
再婚相手との結婚生活は早々に破綻
身体的には中風の発作を繰り返し
脳血管障害(脳卒中)の後遺症
64歳の時に3度目の結婚をするものの
65歳で亡くなる数カ月前には火事で自宅を焼失
故郷でも受け入れられず
本人も故郷に対して被害意識を最後まで持ち続けたといいます。
俳句にも
2万句以上という多作は
こころのケアとしての意味の
切実な必要性を物語る。
苦労続きの人生が反映された
生活苦や人生の矛盾を鋭く捉えた句が多く
反動としての
童謡を思わせる子どもや小動物を詠んだ句
— 宮沢賢治的に
一茶の俳句は「生」をテーマとしていると言われています。



継母との関係は進化した現代的テーマ
故郷の柏原(長野県信濃町)と言えば
記念館も建設されている。
西田幾多郎が晩年に講演した地と


どこまでも西田哲学的なのには
逆に
センセイ曰く驚愕ではない…
驚きしかありません。