がん闘病中で
痛みがきつかったり
不安に襲われたり
咳が止まらなかったりするそうですが
綴っておられました。
ゲシュタルト療法の
「空の椅子療法」ですね。
日本にも昔から
そういう感覚はあります。
「おくわさま」と言って
日頃よく働いてくれる
鍬にごちそうを供えて
感謝の意を表したりしますし
仏壇なんかも同じでしょう。
がん患者は
死の宣告を受けているのだから
PTSD予防が必要だという考え方は
忘れ去られ
学校の試験の答案を返すような感覚で
がん告知もなされますが
患者さんたちは
自助努力をしているようです。
話題の絵本
『たべてあげる』も
よく似た内的対話に関するものですね。
自分の心身との対話
とても大切です。
記事にご提示の絵本では、
赤く熟したミニトマトの絵がありますよね。前のコメント
http://urx.red/CHmH
に(私事でアレなのですが、書いた)アーミッシュが青いうちに摘果したトマトとは違うわけです。赤く熟した実もあるのに、姪が「ママにあげる」と言って、わざわざ青いのを採って家に持ち帰ったのも、兄が仏壇に飾ったのも、意味がある「無意識」のなせる技でしょう。
姪のママには、理解できる筈です。心理職ですから。
赤いトマトですね。
これを選んだ理由があるのでしょうね。
そして青いトマトを選んだことも尊重されねばなりません。
仏壇の前で、そんなお話をすることもできたわけですね。
そうです。わざわざ青いトマトを選んで「ママにあげる」のです。パパではないし、姪の食事を出していた私に「これ食べられる?」と問うた訳でもありません。問われたら「アジのフライにするときに、青トマトのフライも作ってあげる」と私は答えたでしょう。姪とは対照的に、4歳下の息子は、初めから塾したトマトしか採って食べませんでした。それでは、姪は、何を食べることができるのかが判断できないバカ=発達障害でしょうか?…オムツが取れるのも遅かったし?…東海大学では、そうなりますね、多分。それで、いいのでしょうか、芦田さんにお訊きしたいところです。
実は、当時、その仏壇には、姪の母方の祖父母から戴いた「子育て地蔵」と「水子地蔵」のお札が収めてありました。「水子」心理職は、これを如何に理解なさるでしょうか?
つぼみばかり摘む男の子もいました。
青いミニトマトは漬物にもいいんですよね。
そう言えば、連なった小さいじゃがいもなんかも使い勝手があります。
「倒壊大学」「水子心理職」にはちょっと難しいでしょう。
「肺とお話し」であれば、
「調息」をなさりながら、
もの言わぬ身体細胞(=「無意識」を担う歴史的身体)とお話なさったわけですね。
それは大変、結構なことです。
少し前に、アメブロさんが内田春菊さんの
『解決はしません』(2002年、 http://urx.blue/CHAF )
を奨めていらしたので、無料部分だけ拝読しました。
もの言わぬ身体細胞=歴史的身体とお話なさらないから、
「パニック障害」ということになっているので、
「調息」も「調心」もできません。しかし、 “exercice physique”( http://bit.ly/2ovnUb2 )だけは西洋医学的にできているため「セックス依存症」状態です。「シテいる時だけ大丈夫」だそうですから。この先、心療内科に誘導されて「覚醒剤」様の物質依存症=「薬物摂取中だけ大丈夫」という状態に、依存先を変更するのでしょうか?…私には、どうでもいいことなので、先は読みませんでした。どうも、すみません。「こじらせ女子」型PTSD( http://bit.ly/kojiraseGirls )百花繚乱のうちの “one of them” と言えます。失礼ながら、その “one of them” については、拙ブログ記事
http://ameblo.jp/aya-quae/entry-12249061047.html
にてもツイートの提示で触れました。フィクションと雖も百花繚乱のうちの “one of them” として片付けられたくないと推察されますが、全員、「こじらせ女子」型PTSD( http://bit.ly/kojiraseGirls )です。「水子心理職」も含めて。
話は戻って、
「肺とお話し」であれば、
「調息」をなさりながら、
もの言わぬ身体細胞(=「無意識」を担う歴史的身体)とお話なさり、
ゲシュタルト療法をなされば、
安楽死か尊厳死を選ばせようとする西洋白人&腰巾着たちの魔手に落ちずに済みます。
これが理解できないと、「水子心理職」で終わってしまいますね。
一緒にされたくないみたいですが、そういう一群のひとたちが確かにいますよね。
包装紙がどんどん斬新になってゆくので、人目をひきます。
文才があって自分で書く人は稀で、多くは口承文学として語り継がれることでしょう。
「水子心理職」も然りですね。