
理不尽な暴力を受けると
誰でも
解離します。
しかし
傷ついたこころを
しっかり抱えることができて
―ラポールのある傾聴に
支えられます。
そこで非暴力の哲学に
出会うことができたら

観音さまのような
慈悲が生まれ
人を殺める手ではなく
すくう手に
変わります。
PTSDには
この治り方しか
ありません。
「正法眼蔵」カテゴリーアーカイブ
PTSD阿修羅も「表情が素敵」としか言われない日本人コンプレックス

阿修羅像は
人気があります。
憂いを含んだ
表情が
素敵で
こころに響くんだそうです。
この憂いの原因は
なんだろう?
調べたら
驚愕しますよ。
―芸能人のPTSDも
同じ哀しさを含んでいます。
阿修羅はもと
天人でした。
そして
帝釈天に ←神さんのクセに!
娘をレイプされ
その驚愕と哀しみと
憎しみとやるせなさの
コンプレックスに
こころを直撃されて
解離し
―バラバラですね。
しかし
3人くらいは必要な
課題を与えられたとも
考えられます。
戦闘ばかりするようになったのです。
悪いのは
帝釈天です。
しかし
それを暴力で超えようとすると
いつまでも
天人に返り咲くことが
できないのです。
PTSDの被害者は
何も知らなくても
阿修羅像に
感じるものがあるのでしょう。
非暴力は
ガンジーの専売特許じゃありません。
AKB48に熱中するのは無我の象徴だから
阿修羅はPTSD解離人格哀しみの象徴

哀しみに満ちた表情が
人気です。
これは
理不尽さに耐えている哀しみだから
―世の中には多いから
共感を呼ぶのだと思います。
阿修羅は
正義を司る神で
天にいましたが
力を司る神である
帝釈天が
阿修羅の娘を力ずくで奪ったので
―誘拐・監禁・凌辱
光源氏みたいな奴です。
源氏も帝釈天も
人気がありますね。
読む人が否認してるんです。
聴くに耐えない話だから
阿修羅は怒って
帝釈天に戦いを挑むことになったのです。
―普通の反応ですよね。
帝釈天がいけないのです。
しかしドラキュラに咬まれると
ドラキュラになります。
―被害者は容易に加害者になります。
怒りがネックです。
正義の神なので
高い非暴力精神を
試されていたのでしょうね。
―天上界(理想の世界)ですから
厳しいです。
PTSDになったら
阿修羅を思い出し
阿修羅を超えねば
ならないのです。
これが【殺仏殺祖】の考え方です。
―殺というと過激ですが
夢用語なので
超えるくらいの意味です。
それで3人分くらいは
人格が必要になるのです。
―下手するとバラバラの
【解離】になるでしょうね。
他の宗教にはありえない
こころのメカニズムです。
PTSD治療では、考えた方がよいのか考えないほうがよいのか
PTSDの自覚のある人が
自分のこと
家族のこと
あれこれ考えます。
考えようとしているのではなく
考えてしまうのです。
人間の意識は
ほんの一点
コントロールセンターみたいなもので
働き蜂みたいな部下が
「あーだ」
「こーだ」と
考え出します。
収拾がつかなくなり
「ま、いいっか」
「考えても仕方がないし…」と
結論づけます。
しかし
これではいつまでも
苦しみは消えないのですよね。
考えるべきか
考えないべきか
仏教は考えるなと言います。
―考えていたら
瞑想できませんから。
西洋哲学は考えろと言います。
―我考う、ゆえに我ありがスタート
おもうは考えると翻訳されているのが
面白いですね。
陰陽
どうしろってんだ?ということに
なりますが
仏教哲学も
陰陽五行説も
二元論ではないので
考えるのでもなく
考えないのでもないのです。
仏教の言う
考えるなは
そういう意味であって
―放置するのではない。
それを瞑想というのです。
このコツを
いかにつかんでもらうか
それがこころのケアの極意でしょう。
四苦八苦がPTSD原因になる
仏教がとらえた
苦しみの分類です。
根本的な苦しみとして
生・老・病・死の四苦
プラス
愛別離苦
– 愛する者と別離する苦しみ
怨憎会苦
- 怨み憎んでいる者に会う苦しみ
求不得苦
- 求める物が得られない苦しみ
五蘊盛苦
– あらゆる精神的な苦しみ
全部で8つです。
五蘊は般若心経にも出てくる
仏教の精神モデルです。
普通の人生に
PTSDの原因が転がってますが
予防はできるのです。
葬式仏教と揶揄されますが
ちょっと間違いながらも
PTSD予防を担っていると
思います。
震災ショックで『阿頼耶識の発見』こころのケアのお勉強
今日の朝日新聞は
仏教色が強いです。
何にもなくなっちゃったから
あるものは何でも使わねば
なりませんが
そういう意味を超えて
この本はいいと思います。
―例によって
全部読むことはないので ←買わなくてよい
必要な部分だけ書きますが

フロイトが無意識というところを

唯識では
阿頼耶識と言います。
―あーらやしき
蔵みたいなもの
学校では
★無意識の発見者はフロイトだと
教え
★国家試験ではそのように答えないと
点数がとれないのですが
『西遊記』で知られる
玄奘三蔵が
インドから中国に伝えた
仏教思想の根本ですから
フロイトより
★はるかに先に
★はるかに詳しく
★克服法まで
知っていたのです
人生で起こるどんなことも
心の中の出来事にすぎないと
考えます。
執着や嫉妬、怒り、絶望、失敗は
すべて
阿頼耶識の仕業です。
―PTSDの症状ですね。
しかし
阿頼耶識は
日々の意識によって創られた
結果なので
意識をどうにかすれば
阿頼耶識の暴走を
止めることができるのです。

とはいうものの
自我(サル知恵)が
なかなか厄介です。
西遊記の面白いのは
『(自分にも)あるある…
』と
阿頼耶識が反応するからでしょう。
―どらえもんのノビタに人気があるのと
同じ理屈です。
【画餅】と言うがユング心理学のイメージ療法は点心
女人天下90話


凡人は
餅は餅だと思っています。
しかし
幼い皇子は
どの餅かと聞いています。
『正法眼蔵』にある
餅ばあさんの話を
思い出しました。
普通は
絵に描いた餅は
食べられないと考えます。
【心不可得】という言葉を
―こころは
とらえられない。
わかる範囲で解釈し
具体的に表現したものです。
餅は
点心の1つです。
心に点(とも)るものであり
間食とも言いますから
こころと現実の間にあるものです。
―ただの餅なら
食事ではなく
エサです。
食事と大げさな言い方をするのは
心理療法的な儀式だからです。
―日常がおおごとであり
大事(だいじ)なのです。
餅ばあさんは聞きます。
「過去・現在・未来
どのこころで食べるのか?」
どのこころで食べるかで
心身に与える影響が
全く違ってきます。
イメージ表現とは
まさに点心です。
おなかも満腹になります。
この理屈を
今のユング心理学は
失いつつあり
心理療法の現場が
混乱しています。
ユング心理学からみたこもりの僧が造るお花の【象徴】的意味
もうすぐ
お水取り
―東大寺修二会
これで春が来ます
お坊さん達は
もう準備に入っておられます。
―こもりの僧ですよ。
ひきこもりも上手にしたら
万能なのですよ。
(森田療法とかは
ここから生まれたものです)
華厳経のお寺ですから
お花を作ります。

しかめっ面して
坐禅したり
お経を読んでるだけじゃないんですね。
正法眼蔵には
『空華』なんて
ありますが
何も
絵空事のお花では
ありません。
こころのなかの
生きたお花の話です。 ←【変容の象徴】
目には見えないけど
儀式のことや
みんなのことを思いながら
手を動かすことで
心の中に
うまれるものが
確かにあります。
―心理療法の原形です。

向かい合うものの
あいだに
お花があります。
―『借りぐらしのアリエッティ』

―【一即多 多即一】は
華厳経の教えです。
『親鸞と道元』PTSD克服における他力と自力

他力の親鸞
自力の道元
ですね。
道元は
菩提心を
―個性化しようとするこころ
自己実現しようとするこころ
変わろうとするこころ
起こせ!と言います。
それだけでよいと。
それが自力ですネ。
―人に起こしてもらうのでは
ないのです
親鸞は
善人でも救われるのだから
悪人はもっと救われるはずだと言います。
これは都合よく解釈されると
とんでもないことに
なりますが
―実際
恐ろしく勘違いが多い
そもそも
悪人に見える人は
集合的無意識の
一般にはまだみえない悪習から
抜けようとする
途中段階だったりすることを
言っているのです。
―PTSDの人がそうですね。
無意識のうちに気づかされて
混乱しているのです。
善人でもないし
悪人でもない
途中の段階です。
(この中途半端さに
耐えられないしんどさがあります。
どっちかにしてくれと暴れます)
そして
他力というのは
100%の依存ではなく
100%の自力の果てに
沸いてくるものです。
だから辛くても
前を向いて
考え続けなければならないのです。
要するに
言っていることは
同じです。
身もふたもない話で
すみません
