正法眼蔵」カテゴリーアーカイブ

秋田竿燈まつりでも震災復興こころのケア

$PTSD研究家翠雨の日記
昨日から始まりました。
国の重要無形民俗文化財です。
 ―明治以前にできたお祭りは
 みな陰陽五行説で作られた
 こころのケアです。
 華厳経も中国で習合しています。
今年は
「がんばろう東北」と書かれた
提灯もあり
観光客も一緒に
「どっこいしょー、どっこいしょ」の
掛け声をかけ
共に
一日も早い震災復興を
願います。
 ― 一即多 
「竿燈が稲穂のようですごくきれい」と
声が上がります。
稲に見立てているのかも
知れないですね。
 ―日本人は見立てが好きです。
1粒に三千体の仏さんが
宿っているから
大切にしないといけないとか
言われたものですが
1粒1粒が照らし出されていますからね。
 ―三千は燦然でもありますね。
PTSD研究家翠雨の日記
そして
百尺竿頭一歩進めよの
気概が大事ですね。
$PTSD研究家翠雨の日記
人間の行動には
いろんな意味が籠められています。
漢字が書けないだけの
小学生を
すぐ発達障害扱いするのは
どこのどなた?

六道輪廻とPTSDこころの世界

$PTSD研究家翠雨の日記
理不尽な暴力を受けたら
天人だって
解離して
相手を恨む。
それが普通
しかし
そこに
いつまでもとどまっては
いつまでも修羅のまま
 ―六道輪廻のうち
 争ってばかりいる段階
いつか
転識して
 ―リセット
人間に舞い戻り
天人に還る必要がある。
かぐや姫は
天人から
人間に落とされました。
間違うと
地獄に落ちるのが
輪廻の怖いところです。
良いとか悪いとか
そういうのを超えた
こころの真理があります。
 ―死後の話ではありません。
 生きている間に
 ついさっきの行為が問われているのです。

PTSD治癒の過程における正の連鎖仏教編

$PTSD研究家翠雨の日記
理不尽な暴力を受けると
誰でも
解離します。
しかし
傷ついたこころを
しっかり抱えることができて
 ―ラポールのある傾聴に
 支えられます。
そこで非暴力の哲学に
出会うことができたら
$PTSD研究家翠雨の日記
観音さまのような
慈悲が生まれ
人を殺める手ではなく
すくう手に
変わります。
PTSDには
この治り方しか
ありません。

PTSD阿修羅も「表情が素敵」としか言われない日本人コンプレックス

$PTSD研究家翠雨の日記
阿修羅像は
人気があります。
憂いを含んだ
表情が
素敵で
こころに響くんだそうです。
この憂いの原因は
なんだろう?
調べたら
驚愕しますよ。
 ―芸能人のPTSDも
 同じ哀しさを含んでいます。
阿修羅はもと
天人でした。
そして
帝釈天に  ←神さんのクセに!
娘をレイプされ叫び
その驚愕と哀しみと
憎しみとやるせなさの
コンプレックスに
こころを直撃されて
解離し
 ―バラバラですね。
  しかし
  3人くらいは必要な
  課題を与えられたとも
  考えられます。
戦闘ばかりするようになったのです。
悪いのは
帝釈天です。
しかし
それを暴力で超えようとすると
いつまでも
天人に返り咲くことが
できないのです。
PTSDの被害者は
何も知らなくても
阿修羅像に
感じるものがあるのでしょう。
非暴力は
ガンジーの専売特許じゃありません。

AKB48に熱中するのは無我の象徴だから

$PTSD研究家翠雨の日記自我(center)&自己
センターを巡っての争いは
【無我】を象徴していると
思います。
 ―その場その場で変わる。
 AKBという一貫性がないと
 解離になります。
 解離と無我は大違いです。 
AKB商法と言われるくらい
経済に汚染されているのも
この時代の象徴だからでしょう。
彼女らの責任ではなく
アイドル(偶像)は
時代のカナリアですから。
巫女みたいなものですね。
 ―ファンにも被害者がいます。
 犯罪を犯し
 加害者になってしまいました。
涙の返り咲きに感動するのも
 ―『古事記』のスサノヲ以来の感動のツボ
  元気が出る。
生きた象徴の証です。

阿修羅はPTSD解離人格哀しみの象徴

$PTSD研究家翠雨の日記
哀しみに満ちた表情が
人気です。
これは
理不尽さに耐えている哀しみだから
 ―世の中には多いから
共感を呼ぶのだと思います。
阿修羅は
正義を司る神で
天にいましたが
力を司る神である
帝釈天が
阿修羅の娘を力ずくで奪ったので
 ―誘拐・監禁・凌辱
 光源氏みたいな奴です。
 源氏も帝釈天も
 人気がありますね。
 読む人が否認してるんです。
 聴くに耐えない話だからショック!
阿修羅は怒って
帝釈天に戦いを挑むことになったのです。
 ―普通の反応ですよね。
帝釈天がいけないのです。
しかしドラキュラに咬まれると
ドラキュラになります。
 ―被害者は容易に加害者になります。
 怒りがネックです。
正義の神なので
高い非暴力精神を
試されていたのでしょうね。
 ―天上界(理想の世界)ですから
 厳しいです。
PTSDになったら
阿修羅を思い出し
阿修羅を超えねば
ならないのです。
これが【殺仏殺祖】の考え方です。
 ―殺というと過激ですが
 夢用語なので
 超えるくらいの意味です。
それで3人分くらいは
人格が必要になるのです。
 ―下手するとバラバラの
【解離】になるでしょうね。
他の宗教にはありえない
こころのメカニズムです。

PTSD治療では、考えた方がよいのか考えないほうがよいのか

PTSDの自覚のある人が
自分のこと
家族のこと
あれこれ考えます。
考えようとしているのではなく
考えてしまうのです。
人間の意識は
ほんの一点
コントロールセンターみたいなもので
働き蜂みたいな部下が
「あーだ」
「こーだ」と
考え出します。
収拾がつかなくなり
「ま、いいっか」
「考えても仕方がないし…」と
結論づけます。
しかし
これではいつまでも
苦しみは消えないのですよね。
考えるべきか
考えないべきか
仏教は考えるなと言います。
 ―考えていたら
 瞑想できませんから。
西洋哲学は考えろと言います。
 ―我考う、ゆえに我ありがスタート
 おもうは考えると翻訳されているのが
 面白いですね。
$PTSD研究家翠雨の日記
どうしろってんだ?ということに
なりますが
仏教哲学も
陰陽五行説も
二元論ではないので
考えるのでもなく
考えないのでもないのです。
仏教の言う
考えるなは
そういう意味であって
 ―放置するのではない。
それを瞑想というのです。
このコツを
いかにつかんでもらうか
それがこころのケアの極意でしょう。

四苦八苦がPTSD原因になる

仏教がとらえた
苦しみの分類です。
根本的な苦しみとして
生・老・病・死の四苦
プラス
愛別離苦
  – 愛する者と別離する苦しみ
怨憎会苦
  - 怨み憎んでいる者に会う苦しみ
求不得苦
 - 求める物が得られない苦しみ
五蘊盛苦
   – あらゆる精神的な苦しみ
全部で8つです。
五蘊は般若心経にも出てくる
仏教の精神モデルです。
普通の人生に
PTSDの原因が転がってますが
予防はできるのです。
葬式仏教と揶揄されますが
ちょっと間違いながらも
PTSD予防を担っていると
思います。

震災ショックで『阿頼耶識の発見』こころのケアのお勉強

今日の朝日新聞は
仏教色が強いです。
何にもなくなっちゃったから
あるものは何でも使わねば
なりませんが
そういう意味を超えて
この本はいいと思います。
 ―例によって
  全部読むことはないので  ←買わなくてよい
  必要な部分だけ書きますがニコニコ
$PTSD研究家翠雨の日記
フロイトが無意識というところを
$PTSD研究家翠雨の日記
唯識では
阿頼耶識と言います。
 
 ―あーらやしき
  蔵みたいなもの
学校では
★無意識の発見者はフロイトだとしょぼん
教え
★国家試験ではそのように答えないとしょぼん
点数がとれないのですが
『西遊記』で知られる
玄奘三蔵が
インドから中国に伝えた
仏教思想の根本ですから
フロイトより
★はるかに先に
★はるかに詳しく
★克服法まで
知っていたのですひらめき電球
人生で起こるどんなことも
心の中の出来事にすぎないと
考えます。
執着や嫉妬、怒り、絶望、失敗は
すべて
阿頼耶識の仕業です。
 ―PTSDの症状ですね。
しかし
阿頼耶識は
日々の意識によって創られた
結果なので
意識をどうにかすれば
阿頼耶識の暴走を
止めることができるのです。
$PTSD研究家翠雨の日記
とはいうものの
自我(サル知恵)が
なかなか厄介です。
西遊記の面白いのは
『(自分にも)あるある…あせる』と
阿頼耶識が反応するからでしょう。
 ―どらえもんのノビタに人気があるのと
 同じ理屈です。

【画餅】と言うがユング心理学のイメージ療法は点心

PTSD研究家翠雨の日記女人天下90話
PTSD研究家翠雨の日記
PTSD研究家翠雨の日記
凡人は
餅は餅だと思っています。
しかし
幼い皇子は
どの餅かと聞いています。
『正法眼蔵』にある
餅ばあさんの話を
思い出しました。
普通は
絵に描いた餅は
食べられないと考えます。
【心不可得】という言葉を
  ―こころは
   とらえられない。
わかる範囲で解釈し
具体的に表現したものです。
餅は
点心の1つです。
心に点(とも)るものであり
間食とも言いますから
こころと現実の間にあるものです。
 ―ただの餅なら
  食事ではなく
  エサです。
食事と大げさな言い方をするのは
心理療法的な儀式だからです。
 ―日常がおおごとであり
 大事(だいじ)なのです。
餅ばあさんは聞きます。
「過去・現在・未来
 どのこころで食べるのか?」
どのこころで食べるかで
心身に与える影響が
全く違ってきます。
イメージ表現とは
まさに点心です。
おなかも満腹になります。
この理屈を
今のユング心理学は
失いつつあり
心理療法の現場が
混乱しています。