
『あれっ?』と
感じることが大事ですネ。
―スピラーのような
野性の思考です。
鼻ルシス
開けてみると
緑の葉っぱ
―【象徴】は
【自己治癒力】ですから
春の【木気】の
息吹のイメージです。
すべてが再生するのは
春ですね。

屋根も葉っぱの色
目には見えませんが
【象徴】は存在するなと
感じられるものです。

こんな風に
小人さんから
むしりとって
表面的に
上から目線でみても
見えないのです。
「ジブリ『借りぐらしのアリエッティ』」カテゴリーアーカイブ
『借りぐらしのアリエッティ』【象徴】が見えないから閉じ込める
『借りぐらしのアリエッティ』【象徴】台無し
『借りぐらしのアリエッティ』【象徴】をガラクタという人たち

ガラクタのように見えますが
紅茶缶も
植木鉢も
確かに
アリエッティの家にあったものです。
人間が捨ててしまった
記憶(集合的無意識)のなかで
アリエッティたちは
豊かに暮らしていたのです。
なのに
「こっちの方が
いいだろう!」とばかりに

ドールハウスがはめ込まれたのです。
…
日本の箱庭療法には
こういう間違いがあります。
クライエントの豊かな
表現のなかに
確かにある
【象徴】が
がらくたにしか見えないのです。
それで
西洋式の心理学
(ドールハウス)を
日本人向けに文化的翻訳せず
そのまま押しつけますから
PTSDが
【発達障害】に見え
かぐや姫やポニョを
わがままだと言って
矯正するのです。
『借りぐらしのアリエッティ』発達障害誤診の【象徴】
日本のユング派は
★【象徴】が消えた
★発達障害が増えたと
主張します。

― アリエッティたち【象徴】は
絶滅寸前だと
主張する翔と同じです。
【象徴】は自己治癒力であり
PTSDのものですから
―ユングの個性化の過程が
証明しています。
先天的な病である
発達障害には
【象徴】がみられないという
理屈が成り立つのでしょう。
しかし
象徴は生きています。
―発達障害と思われているのは
PTSDです。

大阪の二児遺棄死で
社会の認識が
大きく変化しました。
みなのこころが動かされたのです。
自浄ともいえる
【自己治癒力】が作動し
大きな波が生まれました。

アリエッティ
(象徴)は
生きています。
『借りぐらしのアリエッティ』脱兎の如く去る発達障害研究家
上から目線で
表面しかみない
発達障害研究家と ←左
五感で感じて
PTSDとして捉え
PTSDとして
癒していく
立場 ←右

今年
左に象徴される人たちは
驚愕し
(その否認から)
怒り

脱兎の如く
退散します
―新聞の広告からは
すでに消えています。

発達障害の研究家たち
どうしちゃったのかしら?
そういう一年になるでしょう。
忘却したら
また繰り返しますから
しっかり
反省させないと
いけません。

相手をこんな風に見ていたのは
投影的同一視だったことに
気づけば
合格です。
自分が
臨床家として
【発達障害】だったのです
―厳密に言えば
ユング研究所まで留学し
ユング関係の本を書きながら
【象徴】をとらえられてない
惨めさの否認ですから
PTSDですけど…
正統だけが
生き残るように
世の中はできています。
見かけ上の
かたちだけ整えても
だめなんです。
『借りぐらしのアリエッティ』発達障害誤診と【象徴】否認
『借りぐらしのアリエッティ』うつ病誤診の嵌め殺し
『借りぐらしのアリエッティ』PTSDの二次被害
堅実に生きていた場所に
ある日突然
別世界がねじ込まれるのは
【ストレスフル】な状況です。
間違った箱庭療法の
暴挙として
私は主張していますし
―箱庭療法自体は素晴らしい
治療法です。
震災や水害などの
天災時
DVによる人災時の
具体的な支援の場に
―限りなく天災に近いですが。
こころが無意識に乗っ取られて
いますから…
起こりがちな
間違いと
考えてもいいでしょう。
ショックが【一時被害】
このようなものを
【二次被害】と言います。
一時被害は
なんとかなることが
多いのです。
しかし
二次被害が起こると
致命的なものに ←PTSD予備軍
なります。
絶望が深まるからです。


怯えるクライエントさんを
こんな風に
観察するのは
心理学ではありません。
―心理学は
科学であって
科学でないのです。
主観と客観の双方から
もっとダイナミックな
視点から
考察するものだからです。
陰陽
陰陽つなぐのは
ラポール
(橋を架ける)です。












