お坊さんも
暴走してます
タコボーズくらいで
驚いてたらいけない…。
―前記事
たこ焼きやさんに
突っ込んだ。
けさをまくり上げて
―袈裟の意味が全くわかってない。
道元は泣くと思う。
女性に下半身を見せた
大阪府八尾市の住職(49)が
逮捕されました。
「2~3カ月前から
10件ほどやっており
どの件かよく覚えていない。
思い出します」
解離してますね。
こころのケアもできず
―本来の仕事
加害者になってます。
―被害者はPTSDになるかも
しれません。
座禅して
反省しろ!
「正法眼蔵」カテゴリーアーカイブ
PTSDの時代だから傾聴型の野田首相に期待
みんな長所短所が
あるでしょうが
周囲への気配りが
首相の持ち味だそうで
記者団には
ノーネクタイのラフな格好で
―威圧感とか
上から目線がないですね。
公邸に現れ
「これから汗をかいてやります」と
笑顔で対応
官僚が
政策の説明に訪れると
もっぱら聞き役に徹する。
一日は
お辞儀に始まり
お辞儀に終わるそうです。
―当たり前のようですが
「鳩山元首相、菅前首相の時には
なかった光景だ」と
スタッフは感激
PTSDの時代ですから
【傾聴】が大事だと思いますし
―「新型うつ病の流行」
「一億総痴呆症」
「発達障害早期発見」
現場を見ない
発信型は邪魔です。
気配りこそ
PTSDの薬です。
―パニック発作を起こす人は
いきなりそうなるのではなく
『あんなにたくさんの仕事を
ひとりで…?』
『お局さんに無視されてる!』
『やせたな…』
『しゃべりすぎ。大丈夫かな?』
周囲は
そのストレスに気づいていることが
ほとんどです。
気の迷いから
気が振れる病ですから。
お辞儀は
お互いに傾聴しあう
覚悟の象徴ですよね。
―危険すれすれまで
身体を倒します。
禅僧はよく
丁寧できれいなお辞儀をします。
―しかも長い
ありとあらゆるものを
聴きますからね。
原爆ドーム前の灯篭流しで華厳流PTSDこころのケア
秋田竿燈まつりでも震災復興こころのケア
昨日から始まりました。
国の重要無形民俗文化財です。
―明治以前にできたお祭りは
みな陰陽五行説で作られた
こころのケアです。
華厳経も中国で習合しています。
今年は
「がんばろう東北」と書かれた
提灯もあり
観光客も一緒に
「どっこいしょー、どっこいしょ」の
掛け声をかけ
共に
一日も早い震災復興を
願います。
― 一即多
「竿燈が稲穂のようですごくきれい」と
声が上がります。
稲に見立てているのかも
知れないですね。
―日本人は見立てが好きです。
1粒に三千体の仏さんが
宿っているから
大切にしないといけないとか
言われたものですが
1粒1粒が照らし出されていますからね。
―三千は燦然でもありますね。
そして
百尺竿頭一歩進めよの
気概が大事ですね。
人間の行動には
いろんな意味が籠められています。
漢字が書けないだけの
小学生を
すぐ発達障害扱いするのは
どこのどなた?
六道輪廻とPTSDこころの世界
PTSD治癒の過程における正の連鎖仏教編
PTSD阿修羅も「表情が素敵」としか言われない日本人コンプレックス
阿修羅像は
人気があります。
憂いを含んだ
表情が
素敵で
こころに響くんだそうです。
この憂いの原因は
なんだろう?
調べたら
驚愕しますよ。
―芸能人のPTSDも
同じ哀しさを含んでいます。
阿修羅はもと
天人でした。
そして
帝釈天に ←神さんのクセに!
娘をレイプされ
その驚愕と哀しみと
憎しみとやるせなさの
コンプレックスに
こころを直撃されて
解離し
―バラバラですね。
しかし
3人くらいは必要な
課題を与えられたとも
考えられます。
戦闘ばかりするようになったのです。
悪いのは
帝釈天です。
しかし
それを暴力で超えようとすると
いつまでも
天人に返り咲くことが
できないのです。
PTSDの被害者は
何も知らなくても
阿修羅像に
感じるものがあるのでしょう。
非暴力は
ガンジーの専売特許じゃありません。
AKB48に熱中するのは無我の象徴だから
阿修羅はPTSD解離人格哀しみの象徴
哀しみに満ちた表情が
人気です。
これは
理不尽さに耐えている哀しみだから
―世の中には多いから
共感を呼ぶのだと思います。
阿修羅は
正義を司る神で
天にいましたが
力を司る神である
帝釈天が
阿修羅の娘を力ずくで奪ったので
―誘拐・監禁・凌辱
光源氏みたいな奴です。
源氏も帝釈天も
人気がありますね。
読む人が否認してるんです。
聴くに耐えない話だから
阿修羅は怒って
帝釈天に戦いを挑むことになったのです。
―普通の反応ですよね。
帝釈天がいけないのです。
しかしドラキュラに咬まれると
ドラキュラになります。
―被害者は容易に加害者になります。
怒りがネックです。
正義の神なので
高い非暴力精神を
試されていたのでしょうね。
―天上界(理想の世界)ですから
厳しいです。
PTSDになったら
阿修羅を思い出し
阿修羅を超えねば
ならないのです。
これが【殺仏殺祖】の考え方です。
―殺というと過激ですが
夢用語なので
超えるくらいの意味です。
それで3人分くらいは
人格が必要になるのです。
―下手するとバラバラの
【解離】になるでしょうね。
他の宗教にはありえない
こころのメカニズムです。
PTSD治療では、考えた方がよいのか考えないほうがよいのか
PTSDの自覚のある人が
自分のこと
家族のこと
あれこれ考えます。
考えようとしているのではなく
考えてしまうのです。
人間の意識は
ほんの一点
コントロールセンターみたいなもので
働き蜂みたいな部下が
「あーだ」
「こーだ」と
考え出します。
収拾がつかなくなり
「ま、いいっか」
「考えても仕方がないし…」と
結論づけます。
しかし
これではいつまでも
苦しみは消えないのですよね。
考えるべきか
考えないべきか
仏教は考えるなと言います。
―考えていたら
瞑想できませんから。
西洋哲学は考えろと言います。
―我考う、ゆえに我ありがスタート
おもうは考えると翻訳されているのが
面白いですね。
陰陽
どうしろってんだ?ということに
なりますが
仏教哲学も
陰陽五行説も
二元論ではないので
考えるのでもなく
考えないのでもないのです。
仏教の言う
考えるなは
そういう意味であって
―放置するのではない。
それを瞑想というのです。
このコツを
いかにつかんでもらうか
それがこころのケアの極意でしょう。