一昨年5月に
覚せい剤取締法違反で逮捕
同年9月に
執行猶予付きの
有罪判決を下されたASKA(57)さんは
ブログに膨大な妄想を書いて
周囲の人たちに削除されたあと
本人自ら
錯乱状態で保護を求めたので
精神科入院となったそうです。
依存物質を取り上げられ
妄想も否定されて
追い詰められたのでしょうね。
アルコール依存症やリスカをやめるときにも
参考になりますね。
行動療法では
難しいということでしょう。
一昨年5月に
覚せい剤取締法違反で逮捕
同年9月に
執行猶予付きの
有罪判決を下されたASKA(57)さんは
ブログに膨大な妄想を書いて
周囲の人たちに削除されたあと
本人自ら
錯乱状態で保護を求めたので
精神科入院となったそうです。
依存物質を取り上げられ
妄想も否定されて
追い詰められたのでしょうね。
アルコール依存症やリスカをやめるときにも
参考になりますね。
行動療法では
難しいということでしょう。
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20160127-00505225-shincho-ent
にある
「精神科医の片田珠美氏は、ASKAの症状をこう分析する。
『覚醒剤依存症からさらに進んだ、覚醒剤精神病の状態だと言えます。その特徴は止めどない猜疑心の拡大で、まさにASKAさんの症状そのものです』」
という分析は、間違っている可能性があります。
盗聴や盗撮はあり得ることだから、やられていないかどうかは調べてあげなければなりません。私の元夫も、被毒妄想がありましたが、「誰それの用意した食事など何が入っているか知れたものではない」と言うなら、そういう本人が自由に自分の食事を用意できるようにしてあげたり、本人が「それなら食べるから買ってきて」というものを買っておいてあげたりして、「誰それの用意した食事など何が入っているか知れたものではない」という自分の思いについて自発的に反省できる静かな環境を用意してあげることは「安全確保」の一助になります。そのように、本人が安心できる環境を提供するのが初めの一歩であることは、S先生がお書きのように
http://bit.ly/1T1zaVc
保護室の使い方にも示されています。
以前、翠雨先生の雨風呂記事にもコメント
http://ameblo.jp/raingreen/entry-11450926204.html#c12189595074
したように、様子を観察する側が十分に想像力を働かせて、錯乱している人をいきなり閉鎖環境で拘束までして薬物投与をする前に「安全確保」がポイントということです。それがないと、小熊さん( http://bit.ly/1PmxKik )の人権が蹂躙されます。すると一般論としてはPTSDが悪化します。薬物で制圧してしまうと、本人の努力が無効になってしまい( http://ameblo.jp/aya-quae/entry-12070409980.html これは八咫烏氏に触発されて書いた記事 http://bit.ly/1NTowYQ の一つ)、その時は良いように見えても晩年に認知症に見えるPTSDになる危険性が高まります。
あらためて、翠雨先生の雨風呂記事を検索
http://bit.ly/1NToVdC
すると、PTSDが見えるようになりますね。勉強になるのに、全然、拝読せずに邪魔しに来ている人たちがいるのはクレージーな話です。
清原さんの運転手も落ち着きなく車をチェックしていました。
警察にマークされ出せば、警戒する入手先に妙なものをしかけられていないか確認するほうがまともでしょうね。
あ*さんやS先生のように保護的に対応してもらえば、予後が全く違ってくるのに、「保護室」は本来の意味を失い「監禁&拷問室」と響きます。
オセロの中島さんでも「無抵抗」を選択し脱出されています。
自分で「自分が1番頭がいい」(小熊さん)と言い出すようになれば、不安が高まっていると想像してもいいかもしれませんね。
キツネと名乗ってゴロツキのようなコメントを繰り返したネットストーカーidthatidも最近は人のことを頭が悪いというのが癖になっているようです。
クレージーですが心理職とのことです。
それは、それは。私も「頭が悪い心理職や精神科医が多すぎる」と堂々と書いていますが、少々ニュアンスが違うかと思います。
「自分が一番正しくて、その価値観をきちんと普及させれば、すべてが解決すると言った風なのであった」
…ここが問題( http://ameblo.jp/aya-quae/entry-11959996755.html )ということに気づいてのことか否かが問われます。要するに、PTSDの視座がどこまで確かか?…ということであり、私自身も学習途中ですけど、くだんのネットストーカーさんも「誰それは頭が悪い」とか仰っていないで、ここに自由にコメントなさって、一緒にお勉強なされば無問題ですよ。私、その方が誰方か存じ上げないわけですし。
確かに、「あなた方も書いてるじゃないか」と言われそうです。
日本語が読めない人なので‥(^_^;
日本語ができない日本人というのは不幸です。それが自覚できていれば、まだ本人が努力する余地があって救いがありますが、無自覚では、救いがありませんね。
多言語社会の問題を徹底して研究する必要を感じます。
http://tagengo-syakai.com/xoops/html/
というのがあって、私も先ほど入会しました。息子は、くだんのネットストーカーさんよりは日本語が堪能ですが、東大にスイスイ入る人ほどには日本語ができないのでコンプレックスがありますね。気をつけてあげようと思っている次第です。
研究会も頻繁にあって「論争を巻き起こす場をめざします」とは楽しそうですね。
世の中には語学がとてもできる人がおられて本当に驚きます。
ドイツから西田哲学を学びに来られたまだ30歳位の方は私より日本語がよく読めました。
できないのは仕方がないことなので、「自覚」が大事ですよね。
「できないのは仕方ないことなので、『自覚』が大事」という点に同感です。
数学や科学ができないヒトは、ただの「数学や科学ができない人」であり、文系人ではないし、
日本語ができないヒトは、ただの「日本語ができない人」であり、理系人というわけではない…
ということです。息子が先日、申しておりました。
要するに、個体能力のいかんに依存せず、誰しもが「今、私にできることは何だろう?」と自問しつつ手探りしつつ進んでいくしかない先行き不透明な時代です。個体能力のいかんに依存せず、誰しもが「今、私にできることは何だろう?」と自問しつつ自己教育を進めるわけで、その際に個体能力論に陥らずに応えようとするのが教育者というものですね。鯨岡先生もそのように仰ってきました。
http://www.chukyo-u.ac.jp/educate/psychol/kyoin/kyoin_19.html
無意識の意味に接近しようとすると、民俗学や歴史や宗教哲学、そしてその苦手な語学までが必要で、もう圧倒されっ放しなんですよ。
書いていただいたような視座に立ち返ることを忘れないようにするのは大事なことだと思います。
「関係発達論」とその方法論の刷新の方向に、他の研究者も向かうべきでしょうね。
型にはまった杓子定規の発達論は、薬漬けの道具であり、子どもたちを嵌め殺します。