『君たちはどう生きるか』石の世界も盛美園からのインスピレーション

盛美園がまた話題になっているそうです。

内からみたシーンについて説明してきましたが

冒頭の絵は

外からみた融合の構図です。

津軽地方で盛んだった

大石武学流の造園だそうで

武術と禅があって

武士は刀をペンに代えて官僚に  という視座🤔


大きな池

隕石事件との関連

石橋、立石の

石の物語

住所は石林

回遊式庭園として設計

地球儀のインスピレーション

南西部には書院庭園

こちらも国の名勝に指定

この物語のモチーフが散りばめられていたこともわかりました。

令和になっても

感官中心に

海の底とか庭園とか姿を変えて

華厳経の世界開演中😊

『君たちはどう生きるか』石の世界も盛美園からのインスピレーション」への6件のフィードバック

  1. ドラゴン

    ビデオのアメリカ人は妙に日本人化してますね。
    己を俯瞰する際、こういうアメリカ人の存在は貴重ですね。
    違いの中に歪みが生じるのは分かっている事なのですが、前知識があるか無いかで、その歪みから生じるインパクトの度合いは軽減されますよね。
    普通の人目線でわかりやすくお話しているのがワンダホーです。

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    1. 翠雨 投稿作成者

      見つけたばかりの人物なのですが、若いのに凄いなと思いました。
      他にも興味深いテーマについて(すべて心理学における重要な1つの哲学についてですが)、短い動画で端的に言語化できています。

      深い内容で1つの動画だけでもたくさんの示唆がありますが(竜安寺の砂箱まで出てきてる👀)、引きこもること(食べられなくなること同様に)大事なんだな…と教えてくれています。

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  2. ドラゴン

    何故AIが日本語で表現する時に独特なハルシネーションを示すのかが何となく想像できます。
    グループの他の方々は如何にAIを活用して役立つ方向に持っていくかに集中していますが、ドラゴン🐲だけが未だに何故AIがハルシネるのかを考えています。

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    1. 翠雨 投稿作成者

      AIを活用しようという発想がもう根本的に間違っているのだと思います。
      自然に対する考え方@東西の態度の違い にも通じるような気がします。
      自称PTSDの精神科受診みたいなズルさを自然は赦しません。

      もちろん結果的に活用となることはあるでしょうし、その状態を幸福として期待するのは人類共通です。

      瞑想は目的をもってするものではない@現世利益 という古典的な原理をAIが映し出しているなぁと感じました。

      G線上のアリアかな🤔
      ハルシネる(≒ハルシネていると感じる)か否かは、リトマス試験紙みたいに核となる部分を適格に伝えてくれているんじゃないかな?と今思いました。

      もちろん全肯定(ハルシネなし)で自殺に導かれる人たちのニュースがありますが、おそらくは同根でしょう。

      AIは私が想像していた以上に興味深い代物でした_(._.)_

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  3. ドラゴン

    ご参考までに、私の英国の友人(フランスxアイリッシュ系英国生まれ、日本の大学に留学経験ありの人)がミルヲーキー人のビデオを観ての感想です。Thank you so much for sending me that video. I have been thinking about it throughout the day, and I feel that this is another example of a foreigner believing they can somehow “unlock” the essence of Japan, when in reality even those of us who have studied Japan in depth inevitably fall short. It seems to me that the best way to approach this kind of topic is with humility and an open mind. それでも、あくまで一つの見解として、私の考えを共有させてください。
    この動画を見て、自己というものの根本的な捉え方の違いが、改めてはっきりしたように感じました。もし近代西洋の基盤が、デカルトの「我思う、ゆえに我あり」であり、個人を存在の基礎として据えるのだとしたら、日本の場合はむしろ「私は関係性の中にあってこそ存在する」といった理解に近いのではないでしょうか。そしてこれは単なる抽象的な哲学ではなく、言語や日々の営みそのものの織り目に深く織り込まれているように思われます。
    漢字の「人」という字を、「人と人とのあいだに立つ者」と読むような解釈は、とても示唆的です。そこには、アイデンティティが一つの固定的で自律した実体というよりも、「子ども」「同僚」「地域社会の一員」など、諸々の役割が織り合わさったタペストリーとして理解されていることが表れています。同様に、「自分」という語が本来「割り当てられた持ち場・役割」といった意味合いを持つことも、この関係的な自己観をよく物語っていると思います。つまり、人は大きな社会的全体の中で自分に当てられた「持ち場」として存在しているのです。
    この違いの実際的な帰結は、非常に大きいように感じます。たとえば、村八分のようなかたちでその関係網から断ち切られることは、単なる孤独以上のものであり、ほとんど「社会的死」とでも言うべき存在論的な断絶を意味しているのでしょう。また、この関係的な自己は行為の倫理にも強く影響していて、協調性の欠如は単なる個人主義ではなく、「和」を乱し、「迷惑」を生み出す行為として理解されます。ここでの「罪」は、まさにこの迷惑をかけることにこそあるように見えます。
    こうした点は、東洋的な形而上学における道元の「明鏡」のイメージも連想させます。ご存じのように、そこでは主体と客体が厳密に分かたれているのではなく、非二元的で共発的な現れとして世界が立ち現れます。そのような枠組みでは、意識上の「私」は自分の内面に自足して君臨する主体というよりも、社会的な役割を直観的に演じるなかで、その都度立ち現れては消えていくような存在として捉えられるのかもしれません。
    結局、「日本的国民性」と呼ばれてきたものは、ハイデガーの言うダザインを借りて言えば、一つの特異な「世界内存在」の様式、すなわち日本固有の歴史と文化的論理によって形成された「このような在り方」だと感じられます。要するに、外国人として日本を学び、深く敬意をもって接することはできても、その在り方を自らの内部に完全なかたちで再現することはできないだろう、ということです。それは、外部の者が西洋の根源的な個人主義を理解することはできても、その奥底まで「身につける」ことが難しいのと、どこか呼応しているように思われます。

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    1. 翠雨 投稿作成者

      ありがとうございます_(._.)_

      ハルシネらずこちら側におられる方の存在を知り心強く感じました。(私のように)危惧しなくても潜在的には思いのほかよい理解も広まっているのだと。

      異文化に対し、敬意をもって接することができるだけの見極め(論理性)で充分だと思います。

      それが同じ文化の一番必要とされる分野の専門家に欠けている事実について私はとても残念に感じていたのでした。

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