哲学・宗教・倫理」カテゴリーアーカイブ

お釈迦さまの悟りとPTSD

【生老病死】は
誰にも避けられない問題ですね。

それぞれの過程において
ストレスが高まり
トラウマ(心的外傷)となる
魔境が潜んでいます。
魔境はこの世の地獄です。

他人の生老病死についても
同様にトラウマとなる可能性があり

人間存在には
二重のワナがしかけられています。

お釈迦さまの説かれた
生老病死の四苦は
平成の世でも
消滅していません。

それ以外に
怨憎会苦
愛別離苦
求不得苦
五取蘊苦

の4つが常駐で

人生は四苦八苦

PTSDや解離に満ち溢れた
世界ですが、

負けてはいられません。

七転び八起きのダルマさんの
精神で乗り切りましょう。
続きを読む

ストレスで死ぬこともある

奈良県大和郡山市の医療法人雄山会「山本病院」で
肝臓の腫瘍(しゅよう)摘出手術を行い
男性(当時51歳)を死亡させたとして
業務上過失致死容疑で逮捕された
元主治医塚本泰彦容疑者(54)が
死亡しました。

起床後
洗面を済ませて留置場個室に戻ったあと
大きないびきやうめき声が聞こえ、
署員が見に行くと
倒れて意識がなく、
心肺停止状態で
病院へ救急搬送したあと
亡くなったようです。

塚本容疑者は逮捕後、
食欲不振と不眠を訴えており、
ここ数日は、
睡眠、食事をとれない状態が続き
24日には
脱水症状と診断され、
病院で点滴と流動食を受けていたとのことです。

ストレスの可能性が高いですね。
急性ストレス障害でしょうか。

よくストレスで死ぬことはない
とか言いますが、

もしかしたら
そんなことはないかも?

一人暮らしの自宅で
食べられず
眠れなかったら
衰弱死しますよね。

キェルケゴールは
絶望は死に至る病だと言ってるし…
続きを読む

お釈迦さまの悟りとPTSD

【生老病死】は
誰にも避けられない問題ですね。
それぞれの過程において
ストレスが高まり
トラウマ(心的外傷)となる
魔境が潜んでいます。
魔境はこの世の地獄です。
他人の生老病死についても
同様にトラウマとなる可能性があり
人間存在には
二重のワナがしかけられています。
お釈迦さまの説かれた
生老病死の四苦は
平成の世でも
消滅していません。
それ以外に
怨憎会苦
愛別離苦
求不得苦
五取蘊苦
の4つが常駐で
人生は四苦八苦
PTSDや解離に満ち溢れた
世界ですが、
負けてはいられません。
七転び八起きのダルマさんの
精神で乗り切りましょう。

ストレスで死ぬこともある

奈良県大和郡山市の医療法人雄山会「山本病院」で
肝臓の腫瘍(しゅよう)摘出手術を行い
男性(当時51歳)を死亡させたとして
業務上過失致死容疑で逮捕された
元主治医塚本泰彦容疑者(54)が
死亡しました。
起床後
洗面を済ませて留置場個室に戻ったあと
大きないびきやうめき声が聞こえ、
署員が見に行くと
倒れて意識がなく、
心肺停止状態で
病院へ救急搬送したあと
亡くなったようです。
塚本容疑者は逮捕後、
食欲不振と不眠を訴えており、
ここ数日は、
睡眠、食事をとれない状態が続き
24日には
脱水症状と診断され、
病院で点滴と流動食を受けていたとのことです。
ストレスの可能性が高いですね。
急性ストレス障害でしょうか。
よくストレスで死ぬことはない
とか言いますが、
もしかしたら
そんなことはないかも?
一人暮らしの自宅で
食べられず
眠れなかったら
衰弱死しますよね。
キェルケゴールは
絶望は死に至る病だと言ってるし…

PTSDのつらさを『崖の上のポニョ』から考えてみる

 如人千尺懸崖上樹
 ↑     ↑
ポニョ   崖の上の

千尺は
300メートルくらいですね。
PTSD研究家翠雨の日記

サハラ砂漠は
砂の砂漠ばかりでなく
礫砂漠もあって
そこには【峡谷】があります。

その峡谷が大体300メートルあり
出来上がるのに
4億年かかっているそうです。

どうやってできたか?
それは水の浸食によってできたのですね。
今は砂漠でも
長い歴史のなかでは
豊かな水のある土地だったりしたのです。

アルジェリアに
タッシリ・ナジェールという
礫砂漠がありますが、
タッシリ・ナジェールとは
川のある大地という意味です。

壁画を見ると
そこがかつてみどり豊かな土地であったことが
わかります。

『崖の上のポニョ』では
街が水没し
ポニョと宗介は舟に乗って
避難地へ向かうのですが、
宗介が
古代魚を見つけ
デボン紀の海の生き物だと言っています。

PTSDに罹患して
つらいのは

意識的には
300メートルの崖の上に生えている
木にかろうじてかじりついているという
恐怖で一杯一杯なのに

無意識的には
(監督は海=無意識と書いておられますから)
4億年も前の地球の魂の歴史を見据えたうえで
自分の立ち位置を決めるという
気が遠くなるような
作業を科せられているから
だと思います。

ある哲学者が
自分は哲学をするように
罰せられていると言ったようですが、
そもそも哲学なんていうものは
したくてするのではなくて
生きるために
しかたなくさせられているものではないかと
思います。

だから
ポニョに宗介がいたように
PTSDに罹患した人には
伴走者が必要なのです。
上から目線で教育するのではなくて
一緒に共振れしながら
傾聴してくれる人が必要なのです。
続きを読む

PTSDのつらさを『崖の上のポニョ』から考えてみる

 如人千尺懸崖上樹
 ↑     ↑
ポニョ   崖の上の
千尺は
300メートルくらいですね。
PTSD研究家翠雨の日記
サハラ砂漠は
砂の砂漠ばかりでなく
礫砂漠もあって
そこには【峡谷】があります。
その峡谷が大体300メートルあり
出来上がるのに
4億年かかっているそうです。
どうやってできたか?
それは水の浸食によってできたのですね。
今は砂漠でも
長い歴史のなかでは
豊かな水のある土地だったりしたのです。
アルジェリアに
タッシリ・ナジェールという
礫砂漠がありますが、
タッシリ・ナジェールとは
川のある大地という意味です。
壁画を見ると
そこがかつてみどり豊かな土地であったことが
わかります。
『崖の上のポニョ』では
街が水没し
ポニョと宗介は舟に乗って
避難地へ向かうのですが、
宗介が
古代魚を見つけ
デボン紀の海の生き物だと言っています。
PTSDに罹患して
つらいのは
意識的には
300メートルの崖の上に生えている
木にかろうじてかじりついているという
恐怖で一杯一杯なのに
無意識的には
(監督は海=無意識と書いておられますから)
4億年も前の地球の魂の歴史を見据えたうえで
自分の立ち位置を決めるという
気が遠くなるような
作業を科せられているから
だと思います。
ある哲学者が
自分は哲学をするように
罰せられていると言ったようですが、
そもそも哲学なんていうものは
したくてするのではなくて
生きるために
しかたなくさせられているものではないかと
思います。
だから
ポニョに宗介がいたように
PTSDに罹患した人には
伴走者が必要なのです。
上から目線で教育するのではなくて
一緒に共振れしながら
傾聴してくれる人が必要なのです。

キェルケゴール『死に至る病』とPTSD

1 絶望が死に至る病であるということ。

A絶望は精神におけるすなわち自己における病であり、
そこでそこに三様の場合が考えられうる。
―絶望して、自己をもっていることを意識していない場合
(非本来的な絶望)。絶望して、自己自身であろうと欲しない場合。
絶望して、自己自身であろうと欲する場合。

1848年に書かれたものなので
表現が古めかしいですが、

要するに
絶望 → 病 →死
ということですね。

希死念慮があって自殺する人もいますが、
依存症になったり
自暴自棄をおこしたりして
結果的自死もあります。

絶望して陥りやすい3つのパターンとして
①絶望が大きすぎて自我が振り切れてしまい
 無意識に翻弄されている状態
 結果的自死にふらふらと足を踏み入れる可能性大ですね。

②絶望している自分から逃げようとする場合
 これは【否認】ですね。
 PTSDには【否認】すると
 よけいに追いかけてくる犬みたいな性質があります。

③絶望して開き直る場合
 こころは本来無我
(決まりきった性質はなく、
 その場その場で変化していく可塑性に富んだもの)
 ですが、
 「私=病」「このままでよい」と
 日々無意識にインプットし続けると
 強力なイメージとして定着してしまいます。
 自分で自分に負のマインドコントロールをかけている状態で
 しかも自分の意思で行っている
 という優越感が脳内麻薬になります。
 自分カルトの教祖になった状態です。 

意識しないのは論外だし
逃げても逃げなくてもだめなんですね。
つまり二元論では解決しないということが
ここで明らかになりました。

二元論からの脱出
これが先決です。
この課題に取り組んでいるうちは
否定も肯定もしていないので
PTSDに呑みこまれることはありません。
つらさは残りますが、

そこで時間をかせぎ
少しでもエネルギーを増やしながら
あきらめず
状況をよく観察することが大切だと思います。
続きを読む

キェルケゴール『死に至る病』とPTSD

1 絶望が死に至る病であるということ。
A絶望は精神におけるすなわち自己における病であり、
そこでそこに三様の場合が考えられうる。
―絶望して、自己をもっていることを意識していない場合
(非本来的な絶望)。絶望して、自己自身であろうと欲しない場合。
絶望して、自己自身であろうと欲する場合。

1848年に書かれたものなので
表現が古めかしいですが、
要するに
絶望 → 病 →死
ということですね。
希死念慮があって自殺する人もいますが、
依存症になったり
自暴自棄をおこしたりして
結果的自死もあります。
絶望して陥りやすい3つのパターンとして
①絶望が大きすぎて自我が振り切れてしまい
 無意識に翻弄されている状態
 結果的自死にふらふらと足を踏み入れる可能性大ですね。
②絶望している自分から逃げようとする場合
 これは【否認】ですね。
 PTSDには【否認】すると
 よけいに追いかけてくる犬みたいな性質があります。
③絶望して開き直る場合
 こころは本来無我
(決まりきった性質はなく、
 その場その場で変化していく可塑性に富んだもの)
 ですが、
 「私=病」「このままでよい」と
 日々無意識にインプットし続けると
 強力なイメージとして定着してしまいます。
 自分で自分に負のマインドコントロールをかけている状態で
 しかも自分の意思で行っている
 という優越感が脳内麻薬になります。
 自分カルトの教祖になった状態です。 
意識しないのは論外だし
逃げても逃げなくてもだめなんですね。
つまり二元論では解決しないということが
ここで明らかになりました。
二元論からの脱出
これが先決です。
この課題に取り組んでいるうちは
否定も肯定もしていないので
PTSDに呑みこまれることはありません。
つらさは残りますが、
そこで時間をかせぎ
少しでもエネルギーを増やしながら
あきらめず
状況をよく観察することが大切だと思います。

DVとしての現代臨床心理学

河合隼雄さんの遺言です。

わが国には、心身一如的な観点から、宗教の修行などとも結びつき、心と体の問題を全体として考える方法を伝統的にもっている。このような方法を活用し、西洋から伝わってきた心理療法と統合してゆくことは、臨床心理学の未来の発展に大いに寄与すると思われる。今後は真剣に取り組むべきであろう。

河合隼雄監修臨床心理学5 文化・背景 第9章 臨床心理学の将来 p267

西田幾多郎はこう述べています。

西洋には、アリストテレス以来、一貫した論理といふものがあり、政治も、経済も、文化も、みなそこから割り出されてゐる。…東洋には東洋の物の考へ方があるのだから、生活上の一切がそれによつて考へられるといふやうな論理が明らかにならねばならぬ。華厳や天台の論理といふものも幾分それに近いものだが、私の一生の仕事と云へば、それを探したと云ふただそれだけのことだ。

西田幾多郎『先生に叱られた話その他』

心理療法の歴史は浅く、
まだまだ西洋的に行われています。

わがままだとして
二元論に押し込められた
かぐや姫たちの悲鳴が聞こえてきます。

『崖の上のポニョ』は
その救済の役割も果たしていると
私は考えます。
続きを読む

童謡『めだかの学校』と華厳思想

童謡『めだかの学校』の歌詞は

めだかの学校は
川の中
誰が生徒か先生か
誰が生徒か先生か
みんなでお遊戯しているよ。

先生一人に生徒が多数
これもポニョと妹たちの構図と同じで
【一即多】

PTSD治療でも
セラピストとクライエント
そしてクライエントを取り巻く人々は一緒くたになって
みんな成長していくべきだと思います。

一方的に
セラピストが
教育を施す、
わが国には
そういう手法はなじまないと
私は思います。

我々の集合的無意識には
文化的DNAとして
華厳思想がまだまだ有効に働いていると思います。

キリスト教では
偉大な神とちっぽけな人間の構図になるのでしょうが…
続きを読む