先週は
日本三大祭りの一つ
「天神祭」のフィナーレで花火があがり
本日は
PL教団で
世界一の花火大会です。
世界平和を祈願
宗教は違っても
花火には
日本独特の意味がこめられています。
五行の「火」と
華厳経の「花」
PTSD予防教育の
究極の目標も
世界平和です。
こんな風な
PTSDのメカニズムで
ご理解いただき
まことにありがたいことですが
トラウマって何❓と訊かれるようになりました。
いやいや「こころの傷」でしょと
正しくは「こころの傷」のようなもの
たとえ話であって
具体的に見えたら重度かも?
ジブリやユング参照
反射的に答えましたが
このこころの傷という比喩が
クセモノなのだと
やっと理解できました。
たとえ話だらけの
宗教や心理学の問題なのですが
たとえも言葉を使って行いますから
はじめに言葉ありき
適切な言葉を使わねばなりません。
精神分析で広まったわけですが
もともとはトラウマ=外傷
いつの話❓
当時はそれでよくても
賞味期限が過ぎて
腹痛を起こす人が続出…
トラウマでいいかどうかという
大前提に立ち返らねばなりません。
そもそも
仏教では
「無我」でした(;_;)/~~~
無我は仏教の根本原理
イロハのイ?
我はないのですから
こころはない
本来は
ここがミソです?
傷つきようがありません。
一休さんもそう言ってますし
般若心経にも
「五蘊皆空」と書いてありますから
傷じゃ納得できないという場合もあるのでしょう。
直観タイプには無問題
思考タイプには大問題
河合隼雄は
ユング心理学を日本流に翻訳する必要があると言ったけど
私くらいしか取り組んでない?
フロイトまで遡る必要があるかもしれませんね。
傷ではない言葉がみつかれば
治療論もわかりやすくなるし
PTSDへの無理解も
減るかなぁと思うようになりました。
長寿番組「ポンキッキーズ」は
今月末で終了するそうですね。
ガチャピンも
公式ブログで
「おじいちゃん、おばあちゃん、お父さん、お母さん
そして子どもたち…。
たくさんの人たちに番組を見てもらいました」
「チャレンジをするとき
なかなかじょうずにできなくて
くじけそうになったときは
みんなが応援してくれました」と
番組開始から45年
三世代にわたるファンへ感謝をつづりました。
世代を超えて
チャレンジという言葉で
気づきました。
ポン・キッキも
崖の上のポニョと同じでした。
ポ 「如人千尺懸崖上樹」
ポはアイヌ語で子ども
無意識から無意識へ
そのまま伝わる原理があります。
宗教も心理療法も同じです。
『 風の歌を聴け』の冒頭の
架空の作家の引用は

『正法眼蔵』の「生死」を思わせる内容です。
「この生死は、すなはち仏の御いのちなり。これをいとひすてんとすれば、すなはち仏の御いのちをうしなはんとする也。これにとどまりて生死に著すれば、これも仏の御いのちをうしなふなり。…いとふことなく、したふことなき、このときはじめて仏のこころにいる。ただし、心を以てはかることなかれ、ことばを以ていふことなかれ。ただわが身をも心をもはなちわすれて、仏のいへになげいれて、仏のかたよりおこなはれて、これにしたがひもてゆくとき、ちからをもいれず、こころをもつひやさずして、生死をはなれ、仏となる。」
「仏となるに、いとやすきみちあり、もろもろの悪をつくらず、生死に著するこころなく、一切衆生のために、あはれみふかくして、上をうやまひ下をあはれみ、よろずをいとふこころなく、ねがふ心なくて、心におもうことなく、うれふることなき、これを仏となづく。」
仏を自己(セルフ)と読めば
単純明快でしょう。
集合的無意識における
自我と自己のことを言っているにすぎません。
井戸というのは
集合的無意識の「感官」でしょう。
煙突のような「感官」を
磨がけば
フラッシュバックのような40もの断章が
1つの意味をもったものとして
理解できるようになるわけです。
風は
既述の
「如人千尺懸崖上樹」の模範解答における
「ちんちろりん戦法」で
ジブリは
風間俊と名付けてますね。
こういう人を助けて握手するような人は
自己実現モデル
フラッシュバックくらいは
病気のサインではありません。
見るようにもなるわけです。

夢も自己実現へ至る道の1つですが
ドリーム号が
呑んだくれ続けたバーのある
意識をぼんやりさせないと
大事なことが見えないことの譬え
神戸まで行かなくなったというところで
物語が終わっています。
表現しつくされ
自分なりの哲学が獲得できたので
村上春樹は
自分の「ものさし」と言う。
必要がなくなったからだと思いますが
かぐや姫の物語より「固着と退行」のメカニズム
こころのケアについての
未来を予測していたかのようにも思われる
意味深な表現です。
絡まれる人1には
私のなりすましまで湧いてきて?
自作自演の場外乱闘
「風の歌」の意味も自ずと判明します。
絶対の絶望と絶対の表現と言えば
正法眼蔵【祖師西来意】しかないでしょう。
大事な原理なので
ジブリも
如人千尺懸崖上樹として
『崖の上のポニョ』で
百尺竿頭として
『借りぐらしのアリエッティ』で
アリエッティを竹の上に立たせ
ひょいと飛ばせました!
『かぐや姫の物語』で
ポニョのように崖の上から飛ばせ
自己表現させます。
繰り返し表現しました。
「祖師西来意?」は禅の公案ですが
あなたは誰かと訊かれ
応答しないのはマナー違反だが
常識的な答え方では
落命してしまう。
気がつけば
絶体絶命の場に
模範解答はこちらです。
集合的無意識を鑑みて
「ねずみ」のように足元を掘り続けて脚下照顧
自己表現するということですが
ジブリは追い込みの時
チンチロリン(風鈴)戦法だ!と気合を入れるらしい。
まずは
風鈴のように
風を感じる必要があり
浜田省吾『風を感じて』はこの頃か?
「片手(隻手)」の声を聴けなんて
片手で拍手なんて無理でしょう!なんて言えば
即退場です。
公案も一緒くた(一即多)になって
「風の歌を聴け」になったのではないかと思います。
イエスの墓に
たくさんの人達が集まってきて
各々がイエスの事を考えていますと




突然
戸が開き

お母さんは
微笑みました。
女優さんじゃない
一般の方だそうですが
きれいな表情ですね。
ふと
『借りぐらしのアリエッティ』の貞子さんを
想いました。
右の
自然治癒力(アリエッティ)を追いかけ回して
薬漬けにしようとする
ハルさん
(こころのお手伝いさん=臨床心理士)と違い
ふとしたものから
自然治癒力の存在を
感じることで
こころが豊かになるタイプの人です。
仏教的にも
拈華微笑という言葉があったような。
『 奇跡の丘 』の続きです。
イエスが
突然
波の上に現れます。
幻などではないから
よく見よと言われ
信じた弟子の1人が
その場所に渡ろうとしますが



渡れるかどうか
一抹の不安を感じて
失敗しかけたので
イエスに信仰が薄いと言われます。
ポニョは
宗介に会いに行くために
波の上を走り抜け
崖も駆け上がりました。
現実には
不可能なことですが
その心意気が大事で
宮﨑駿は
「波の上というものは
走ることができるのだと思ってもらえれば
(この作品は)正解!」と
言っていました。
ポニョは
華厳経満載の物語ですが
崖の上のポニョというのは
如人千尺懸崖上樹という
禅の公案から来た名前で
正法眼蔵のなかに
「海上行」について書かれた
一節があります。
宗教は違っても
海の象徴性は同じなので
似たような表現になるのでしょう。
常識にとらわれず
自分の目でよく見て
子どものように素直に
突き進むことは
大事なことだと思います。

稲田防衛相に続いて
森友学園の籠池理事長から
100万円もらっても
100万円を受け取ったと言われても
「全く覚えていない」という
昭恵夫人 ですが
よいお話だと思ったら
すぐに8000万円を動かすことができるようですから
(by 日本モッタイナイ学会)
なーんにも考えておられないだけかもしれませんね。
【解離】と言います。
なーんにも考えておられなくても
それが正しい行いならば
(昨夜
沢山の人が笑った
あの映像が消されているということは
まずいのでしょう)
成所作智と言って
右が高きから低きに流れる如く
(水の誤記でした?)
無意識のうちに行われる
仏さまのような行動なのですが。
『コクリコ坂から』にも
こんなのありましたね。
追記:アメブロのコメント欄で
2個所間違いを指摘していただきましたので
訂正させていただきました。
2014年に
スタジオジブリの制作部門が解体
退社した2人の監督が立ち上げる
スタジオポノックの
第一作目になります。
魔女の花とは
7年に一度しか咲かない
禁断の花“夜間飛行”
『夜間飛行』は
宮﨑駿の好きなサン=テグジュペリの作品で
パリからアフリカへの
心もとないプロペラ機でのフライトのお話
(ジブリの意味はサハラの熱風)
滅多に咲かない花は
仏教によく出てくる
『優曇華』のイメージが
溶け合ったものでしょう。
魔女の花を見つけた
メアリが
一夜限りの不思議な力を手に入れ
魔女の国へと飛び立つところから
物語が始まるのですが
ヒロインは
『思い出のマーニー』で
第三のヒロイン
彩香を好演していた女の子で
本名が「花」ちゃんと
どこまでも
花づくしです。
ジブリ作品は
華厳経満載なのですが
華厳の意味は
花を飾ることで
(例え話であって
生花をすることではありませんが)
『コクリコ坂から』なんかも
花づくしで
ヒロインのおばあさんの名前が「花」さんでした。
『思い出のマーニー』の
彩花は
トンボメガネをかけてましたが
「見性」の強調であるように思います。
メアリはすごく真っ直ぐで
前向きな女の子なのだそうですが
これは
『崖の上のポニョ』の宗介の
女の子版でしょう。
「よい子」というのは
実は問題があるということで
真っ直ぐな子を主人公にしたのですが
そんなのでお話が成り立つかどうか
「賭け」だったそうです。
崖は何も高い山とは限らず
水辺なんかも昔は「かけ」と呼んだそうで
本来は「危険な場所」「賭け」という意味です。


ポニョ以降の哲学をそのままに
再出発するみたいですね。