高畑勲氏が亡くなられたそうです。
この絵は
『かぐや姫の物語』のときのものでしょうか。
ジブリのかぐや姫論が
私とまったく同じでとてもびっくりしたのを覚えています。
ネット上では
「敗戦利得」という言葉が出てきていますが
渡部昇一によって広まった言葉
そのことで悩み
PTSD予防することで
個性化する人もいるということですね。
高畑勲氏が亡くなられたそうです。
この絵は
『かぐや姫の物語』のときのものでしょうか。
ジブリのかぐや姫論が
私とまったく同じでとてもびっくりしたのを覚えています。
ネット上では
「敗戦利得」という言葉が出てきていますが
渡部昇一によって広まった言葉
そのことで悩み
PTSD予防することで
個性化する人もいるということですね。
『オバケのQ太郎』の
連載が開始した
1964年2月28日が
誕生日と設定されているそうです。
生みの親ですが
藤子・F・不二雄というペンネームや
一太極二陰陽を強調
太極Fに対して
藤子と不二雄
イザナギ・イザナミみたいな
男女(陰陽)名が派生
スタジオ・ゼロという
ゼロ=太極
制作会社名からして
陰陽五行説の掌の上です。
オバケは
一つの種族で
かつては人間と共生していたけれども
のんびり屋で
嘘をついたり
人を傷つけたりできないので
追いつめられて
その結果
解離して攻撃的になると
妖怪になる。
隠れ住むようになったという設定だそうです。
Q太郎の卵だけが
卵生!
他の兄弟と離れて
それで繊細となり
頭があまり働かなくなったのかも
ちょっと過食気味でもあり
家出しても食ストレスに耐えきれず
ポニョのようになれない。
でも
お陰で連載が可能となる。
竹藪に落とされ
竹は集合的無意識だが
かぐや姫は手入れされた竹林
大原家に居候するようになりました。
天人が修行のために落ちてくるイメージ?
連載当初は
毛が10本以上あったのが
次第に減って
「台風Q号」から
3本に落ち着いたそうです。
Wikipediaに
「大学では心理学を学んでいた
担当の井川浩が
「男は奇数女は偶数」という
フロイトの学説に基づき
毛を3本にする提案をしたことが直接のきっかけという[18]。」と
書いてありますが
「男は奇数 女は偶数」というのも
陰陽五行説そのものではないかと思いますよ。
三位一体 ≠ 一太極二陰陽
大阪府
千早赤阪村の
金剛山の林道で
23日午後
大阪市此花区の中学3年の女子生徒(15)が
千葉市の20歳代の男性と
車内で
練炭心中しました。
座間の事件後も
根本的に考えようとする機運がないから
こんな事件が続くわけです。
連日ように
都市機能を麻痺させる
人身事故と同じ
遺書を書く未練もないという
現状は悲しすぎますね。
本来は
こころをほっこり癒す温かいものなのに…
山や練炭が選ばれるのにも
宗教的な意味があるように思います。
炭焼きの
老賢者と出会えると
かぐや姫となり
個性化できるのに
アメリカでも
「メリークリスマス」ではなく
「ハッピーホリデー」と言う人が
増えているそうです。
多民族国家なのに
今頃とは
遅いようですが
世界がそれだけ【抑圧】的だからでしょう。
気候によって
いろんな文化の違いはあるけれど
集合的無意識を下りてゆき
人類共通の部分にある
太陽信仰ということで
よいのではないでしょうか。
ということで
なんちゃって仏教徒も
本日は?と?で?です。
鳥居から
直観の宿る場所
ご来光です。
冬至で寒いけれど
陰極まれば陽の兆しの始まりで
春の足音が聴こえているのです。
耳をすませば聴こえます。
『かぐや姫の物語』でも
炭焼のおじさんが
ユングの老賢者
失意のかぐや姫に
そう教えていると前にも書きましたね。
太陽信仰は
世界宗教の基本だけれど
陰陽五行説が
物事を「全体的」に大きな視座から捉えようとするところは
実際的でよいなと思います。
難解さに酔う姿がウザいと言われる
ハルキストたちですが
長編小説第一作目
『風の歌を聴け』の冒頭も呑みすぎ注意らしいです。
「完璧な文章などといったものは存在しない。
完璧な絶望が存在しないようにね。」
巷では
完璧に拘ると何も書けないのだとか
自己治療のために書いてみると
そんなに絶望的でもないことがわかるのだとか
(でも、そういう方法では治らないのだとか)
いろいろ書かれており
ブログを書いていると
記事を削除せよと
ネットストーカーに絡まれることも少なくない昨今ですが
ここは
やはり
前に書いたように
最初は
フラッシュバックのようなバラバラなものしか
(時系列もバラバラ)
思いつかないので
完璧な文章などかけるはずもなく
(また書く必要もなく)
書き続けることができるならば
(これが難しい)
ねずみは足元を掘り続ける。
(脚下照顧)
意味あるまとまりが感じられるようになり
自分なりの哲学をつかみ
人にも伝わるような作品になって
(文章というかたちではなくなることもある)
思いが表現しつくされたとき
絶望が消えると同時に
そのテーマについて
書く意欲もエネルギーも消失するということでしょう。
集合的無意識のなかの感官へ
「固着と退行」
全ては「空」という訳です。
夫のPTSD解離自殺から始まるドラマですが
「忘れない」のはよいとして
おかしなカウンセラーが
復讐心を煽ってますね。
これは
いわゆる「共感」ではないと思います。
しかし
一方的に洗脳されているのかどうかは
怪しい感じです。
基本的な人格は
無表情で
目的のためには手段を選ばないのですが
このカウンセラーの前では
誇張された被害者人格が
憑依して
弱々しくなり
保護を煽ります。
いわゆる
「あなたはそのままでいい」というのとも
ちょっと違いますね。
『かぐや姫の物語』より
こうして
自家中毒を起こしながら
PTSD予防ではない方向に進む事例は
少なくないと思います。
人格がバラバラだとも言えるわけですが
脚本家の方々は
ほんとに
見てきたように
よくご存知で(+_+)
懸念されていた
夏休み明けの
子供の自殺が相次いでいます。
官民の相談窓口には
8月下旬ごろから
「死にたい」などと
自殺の恐れがある悩みの声も
相次いで寄せられているそうです。
「うちの子は大丈夫」等の
固定概念を捨てて
安全第一で見守り
「学校に行くか、やめるか」等の
二元論ではなく
背景にある
「友達関係」「宿題ができない」という問題が
どうして起きたのかという
根本に立ち返って
一緒に考えてゆくことが
推奨されるようになりました。
禅では
大死一番乾坤新たなりと言います。
その根本を徹底すれば
(大死)
かならずよくなるのです。
(乾坤新たなり)
(自己実現の物語である『かぐや姫の物語』より)
子どもの頃から
ゆっくりゆっくり
思い出すとよいですね。