このお花の名前は
宇宙であり
ミクロコスモス☯マクロコスモス
要するにマンダラということで
全体のイメージ
華厳経です。
花を飾るという意味
ジブリの原理は
みな華厳経でしたね。
アメブロさんによると
本日は【十六団子の日】だそうです。
花より〇〇
▼本日限定!ブログスタンプ
お米も一人ではお米になることはできず
自然の力を借りる必要があるので
みんな
お蔭さま ←シャドウ(影)@C.G,ユング
お互いさまです(^_-)-☆
米作りを始める時期である
3月16日に
農耕の神様が山から田に降りてこられる
自然の擬人化
依り代として
神様に16個のお団子を供えます。
お帰りになる11月16日にも16個
(お雛さまやお正月と同じで旧暦通りのこともある)
自然と共にあることの確認とありがとうの気持ちが心身に効く。
言わずと知れた陰陽五行説の哲学どおりです。
ここから派生したいろんな表現ですが…
【花より団子】は個人の自由でどちらでもよく
好き嫌いは感情機能
末那識の自己表現
身体だけで考えると
団子が栄養となりますが
飽食の時代
飢えてはおらず
むしろ身体を害することもあるので
恵方巻のように
黙って16個も急いで食べるものとの杓子定規では
長寿どころじゃないかも…
食べずに
プチ断食は瞑想への入り口
お花を飾ることが
華厳経の意味
ジブリもヒロインに花を飾らせていましたね。
精神の栄養になります。
貧しい生活のなかからの16個のお団子の効能は
かなりのものだったことでしょう。
神さまは平等ですね。
道元の【画餅】によると
こういうことが理解できていないと
餅売り婆さんにバカにされてお餅を売ってもらえないこともあるし
「絵に描いた餅でしか空腹は満たせない」というのが真実らしいですよ。
私もそれに賛同します💐
絵画療法もいいですね。
画餅を笑うものは画餅に泣く(^_-)-☆
こんな風な
PTSDのメカニズムで
ご理解いただき
まことにありがたいことですが
トラウマって何❓と訊かれるようになりました。
いやいや「こころの傷」でしょと
正しくは「こころの傷」のようなもの
たとえ話であって
具体的に見えたら重度かも?
ジブリやユング参照
反射的に答えましたが
このこころの傷という比喩が
クセモノなのだと
やっと理解できました。
たとえ話だらけの
宗教や心理学の問題なのですが
たとえも言葉を使って行いますから
はじめに言葉ありき
適切な言葉を使わねばなりません。
精神分析で広まったわけですが
もともとはトラウマ=外傷
いつの話❓
当時はそれでよくても
賞味期限が過ぎて
腹痛を起こす人が続出…
トラウマでいいかどうかという
大前提に立ち返らねばなりません。
そもそも
仏教では
「無我」でした(;_;)/~~~
無我は仏教の根本原理
イロハのイ?
我はないのですから
こころはない
本来は
ここがミソです?
傷つきようがありません。
一休さんもそう言ってますし
般若心経にも
「五蘊皆空」と書いてありますから
傷じゃ納得できないという場合もあるのでしょう。
直観タイプには無問題
思考タイプには大問題
河合隼雄は
ユング心理学を日本流に翻訳する必要があると言ったけど
私くらいしか取り組んでない?
フロイトまで遡る必要があるかもしれませんね。
傷ではない言葉がみつかれば
治療論もわかりやすくなるし
PTSDへの無理解も
減るかなぁと思うようになりました。
マリリン・モンローは
朝鮮戦争から帰還した夫を邪険にし
1952に撮影
1953休戦体制へ
戦争中
陸軍の精神科病院にいたと触れ回り
ジョナサン・レターマン医師から名付けられたレターマン陸軍病院
跡地から様々な作品が生み出されることに
愛人と共謀し
自殺したように見せかけようとします。
よくある話なので
悪事が成功したと思いきや
死亡確認に行くと
亡くなったのは愛人で
反撃に遭った。
ショックのあまり気を失い
PTSD反応
意識不明となります。
目覚めますが
PTSD解離性遁走のなかで死亡しました。
日本でも
朝鮮戦争関連で
PTSD物語がありましたね。
『ナイアガラ』は
当時のナイアガラの滝の記録映画としても
興味深いです。
『 風の歌を聴け 』の物語は
1970年から始まるけれども
バラバラな断章を手繰り寄せると
フラッシュバックみたいなもの
「1963年」が浮かび上がることは
既に指摘されている通りです。
PTSDの心理療法も
まるで『遠野物語』のような
現実非現実入り混じり
時系列バラバラのフラッシュバックのようなところから
始まるものです。
①主人公が
ものごとを把握する「ものさし」を持ち始めた頃
「僕がものさしを片手に恐る恐るまわりを眺め始めたのは
確かケネディー大統領の死んだ年で
それからもう15 年になる」
②ねずみがまともだった時代の終わり
「1955年から1963年ごろまで
我々は夏になると ここに来たもんだよ。
親と姉と俺と、それから雑用をやっ てくれる女の子とね。
考えてみれば、あれは俺の人生では いちばんまともな時代だったな」
(『羊をめぐる冒険』)
③写真の女性が一番美しかった時
④小指のない女の子の家族がバラバラになった時
1963年は
ケネディ大統領暗殺の年だからとも
明かされていて
ヒッピーの女の子とか
ケネディ大統領暗殺で長期化した
ベトナム戦争が生んだヒッピー文化を思わせる。
フランス語を習っている2人の女の子が出てきて
仏文科の女の子の方は
『生物哲学の根本問題』を読む主人公に
レーゾン・デートルについて問いかけたりしています。
フランスでの五月革命やサルトルを連想させる。
そして
主人公とねずみの物語は
10年後の『1973年のピンボール』へと続き
2人が空虚な 日々を送り
現実感を失っていく様子が描かれる。
『羊 をめぐる冒険』で完結するとのことで
絵画や箱庭等の
芸術療法ならすっと見渡せる。
1963年は
ケネディ大統領暗殺事件は
村上作品全体の軸になっているわけです。
ケネディ家は
PTSDの負の連鎖の象徴みたいな存在ですからね。
PTSD否認すればただのミステリーです。
ジブリの『コクリコ坂から』の舞台も1963で
ヒロインのトラウマの背景には
朝鮮戦争がありました。
ドラマ『明日の約束』の脚本家は
女優さんに
スクールカウンセラー独特の
言語では表現しにくい胡散臭さを
見事に演じさせているように感じ
感心させられます。
一昔前も
肩に力が入った感じを
よく出していました。
女優さんの予後が心配なんですよね。
負の連鎖しましたからね。
子どもを自殺に追いやった
母親の病理がテーマになっていますが
毒親という言葉が流行ったことがありましたね。
その家庭にある大きな水槽の内部には
こんな感じの「仕切り」がありました。
画像は
この映画より
飼っているのが
「ランブルフィッシュ(Rumble Fish 闘魚)」で
攻撃性が強く
突撃する習性があるので
共食いにならないようにしているそうで
兄を亡くした妹は
「うちの家族みたい」とつぶやきます。
お母さんが心理支配していて
教育委員会勤務のお父さんは事なかれ主義
昔から
かまどのまわりには
「カマドウマ」がいて
跳躍力が高く
壁にぶつかってのびたりしていたそうですが:)
仕切らなくても
問題は起こらず
こんな場所にアリエッティ(自然治癒力)がいたものでした。
この家庭には
アリエッティはやってくるでしょうか?
奇しくも
仕切りのモチーフがみられましたので
#おはらい(お祓い)をつけてみました✨
その直前に
縁あって出会った書物が
これでした。
確かに
医療が進歩したと言っても
治らない病気だらけで
苦しむ患者さんが多く
昔以上に
こころのケアが必要になりました。
こころのケアというのは
傷ついたこころのケアですから
PTSD予防ということになります。
こころのケアとは
どのようなものなのかということですが
支援者の
「傾聴」に支えられて
苦難のなかで
自分で納得できる哲学をつかむことができたとき
こころの痛みが消えるというのが
教科書的な常識です。
しかし
本書は
「無名の人々の真剣な営みのなかに
哲学を発見すること」
つまり
哲学を支援者が提供します。
しかも
「妄想のなかに入り込んで」
「デートする」
支援する側の気分の落ち込みを癒やすために
「亡くなった赤ちゃんとのコンタクトを回復しようとします」
「産湯に浸って
ふわーって浮かんで
「ちょっと泳いでみようか」ってぴゅーってしてると
ほんとに赤ちゃんが穏やかな表情で
あのお地蔵さんみたいなかわいい表情になって
そういう表情を見てると私たちが
すごくなんか「うー」ってなってる気分が少し
気持ちが楽になるんですよね。
で、みんな結構そうなんですよ」
「生まれてきたぞ、そして亡くなったぞ」と
声をかけながら、その短い一生の証人になります」
これでよいのでしょうか。
私には
苦しみの只中にある人を癒やす
幻想(イメージ・ヴィジョン・夢)という
聖なる場所への
(ヒロインは
周囲が見守るなかで
自分に向き合い
幻覚や夢を見ながら哲学しました)
冒涜でないかと感じられます。
優秀な学生さんが
「どうしていいかわからなかった」と
解離行動をさせられてしまうような
根本的な哲学的混乱が
今の看護教育のなかにあるのではないでしょうか。
そう感じさせられた事件でした。
稲田防衛相に続いて
森友学園の籠池理事長から
100万円もらっても
100万円を受け取ったと言われても
「全く覚えていない」という
昭恵夫人 ですが
よいお話だと思ったら
すぐに8000万円を動かすことができるようですから
(by 日本モッタイナイ学会)
なーんにも考えておられないだけかもしれませんね。
【解離】と言います。
なーんにも考えておられなくても
それが正しい行いならば
(昨夜
沢山の人が笑った
あの映像が消されているということは
まずいのでしょう)
成所作智と言って
右が高きから低きに流れる如く
(水の誤記でした?)
無意識のうちに行われる
仏さまのような行動なのですが。
『コクリコ坂から』にも
こんなのありましたね。
追記:アメブロのコメント欄で
2個所間違いを指摘していただきましたので
訂正させていただきました。