聖書」カテゴリーアーカイブ

『奇跡の丘』①イエス が癒やす蹇( ヒステリー=PTSD)

『奇跡の丘』は

「マタイによる福音書」の解釈に沿って

イエスの生涯を再現した物語です。

 

「奇跡の丘」の画像検索結果「奇跡の丘」の画像検索結果

 

 

イエスの到来を知って

両杖をついた

足の不自由な男性が

必死でかけつけました。

 

イエスに

その杖を手放して見なさいと言われ

素直に応じたシーンです。

 

 

男性は

もと来た道をかろやかに去ってゆきます。

 

ヒステリーですね。

 

今はPTSDと言いますが

失立・失歩・失声・失聴から失神まで

何でも起こります。

 

 

「ポニョPTSD」の画像検索結果

 

『崖の上のポニョ』にも

そんなシーンがありました。

 

治癒に至るには

 

法典学者のように

安息日に治療してはならないと

杓子定規に奇跡の邪魔をするのではなく

 

 

人を試すようなことをせず

 

 

狭き門から入る勇気をもち

哲学的忍耐力を養うことが必要です。

『少女のための秘密の聖書』でPTSD予防教育

古典は

 ―『古事記』も
たいてい
PTSD予防教育によい
教材です。
ドラキュラに咬まれた時に
 ―PTSD解離事件に巻き込まれる。
それが
ドラキュラの仕業であること
ドラキュラが
普遍的な存在であることを知り
ドラキュラの呪いから
解脱していった先人の事例を学ぶことは
大切なことです。
『古事記』に出て来る
裸踊りは
教育に悪いと
言われますが
 ―ユング派僧侶がそう言った。

失意の人
アマテラスを外に出すために
大事なことを
象徴的に教えたものであって
なにも
この通り真似るように
勧めたものではありません。
読み方が大事ですが
 ―間違った読み方をし出すと
  迷路にハマり
 PTSDは治らない。
子どもは
教えなくても
感性的に理解するようです。

聖書にあるPTSD克服原理

「人間には
一度死ぬことと
死後にさばきを受けることが
定まっている」
 ―へブル人への手紙 9章27節
「神は
実に
そのひとり子をお与えになったほどに
世を愛された。
それは
御子を信じる者が
ひとりとして
滅びることなく
永遠のいのちを持つためである」
 ―ヨハネの福音書 3章16節
トラウマに向き合うことで
死と再生が起こり
 ― 精神的に一度死ぬ。
個人の物語を完結させ
普遍性の
大きな流れに入ってゆくのです。
信じない人は
個人の物語すら完結できず
 ―成仏できず
 地縛霊として
 人々に悪さをする。
永遠に彷徨います。
 ― お能が示す通りです。

PTSDのトラウマは否認できないと聖書にも書いてある。

「そして
人間には
一度死ぬことと
死後にさばきを受けることが
定まっている」
 ―へブル人への手紙
 9章27節
創造主が実在し
 ―自己
記憶が
きれいに存在するからです。
イエスを
 ―自我
受け入れることで
 ―解離せず
 しっかり直視
救われます。
 
 

寅さんとイエスが似ていると言うPTSD否認司祭はヒトビトを救えるか

$PTSD研究家翠雨の日記
聖書学の成果に
 ―カソリック司祭
「男はつらいよ」の
精緻な読みこみを重ね合わせ
 ―大学教授
イエスの風貌と
ユーモアは
寅さんに類似していると気づき
現代に求められている
聖なる無用性の根源に
迫ったそうです。
寅さんは
人間関係が下手くそで
失恋すると
旅に出ます。
こんなの
PTSD性解離性遁走に    ☚病理
決まってるじゃないですか。
 ―気が弱いから
 無反省に繰り返す。
その哀しみが見えないで
「ユーモアが服を着て歩いている」から
みんな癒されるのだなんて
ヒドすぎる。
 ―上原美優さんの
 PTSD物語を美談にし
 精神科に追い込み自殺させた
 集合的無意識そのものです。
イエスは
求道者です。
 ―西洋人の自己実現モデルです。
 日本のバカモン教授なら   
 わがままと言うかも
 知れませんが。
修行のなかで
ユーモアも生まれますが
 ―自我の成長過程ですから
回避せず
集合的無意識の中にある
悪に対峙し続けた人です。
二人を一緒くたにしてすむ
立場って
お気楽ですね。

『聖痕26』 PTSD克服の過程の1つとしての【受胎告知】その象徴的意味

幼稚園のクリスマスの
催し物で
主人公の男児は
 ―PTSD予防中
『受胎告知』に出てくる
大天使ガブリエルを
演じることになりました。
大天使ガブリエルが登場するのは
ルカ伝だけだそうで
それなら
『古事記』の天孫降臨みたいな
意味があるのでしょうね。
 ―日本人の解釈する
 キリスト教ですから
 『古事記』風に
 展開する可能性があります。
「めでたし
恵まるる者よ。  ☚感応道交が自己実現
主       ☚セルフ
なんぢと    ☚自我
偕にあり」   ☚こころにある降臨の階段です。
マリアが聖霊によって
イエスを身ごもるというのは
科学的には
説明がつきません。
文学的
宗教的
哲学的な
心霊上の事実です。
そして
変質者によって
現実に去勢された男児が  ☚フロイト的
これを演じさせるとは
 ―中国や韓国の
 宦官みたいでもありますね。 ☚子どもの時に去勢
なかなか
象徴的な出来事です。

虐待親やDV父という敵を愛さなくてはならないのか?

「汝の敵を愛せ」
理不尽ですが
 ―理不尽なテーマを抱えて
 初めて
 宗教や哲学が必要になります。
 
 それまでは
 ナンセンスです。
 「私は無宗教です」と
 威張って
 勘違いしている
 未治療のPTSD親も
 いましたね。
聖書に書いてあります。
虐待親やDV親は
一番の敵と
感じられ
みんな葛藤しますね。
「許さない」という人と
「許す」と言いながら
調子を崩す人が多いように
思います。
 ―そして
 それを周期的に
 ぐるぐる繰り返す。
「どうでもいい」と
斜に構えるタイプもありますが
何かのときに
抑圧されたコンプレックスに
襲われ
驚愕しては
調子を崩しますから
どうも聖書にあるような
抜け方しか
ないようですが
実は
これ誤訳なんですね。
「汝の敵を愛するように
なります」でした。
と言っても
マントラのように唱えても
ダメです。
まっとうな治療過程の果てに
そうなりますよという
意味です。
やはり正攻法しかないし
そこには
【元型】があるのです。
目には見えないけど
確かにあります。
$PTSD研究家翠雨の日記

毒づくイエスのいない被災地のこころのケアは心配

ケセン語訳の新約聖書の著者
山浦玄嗣さんは
イエスが十字架で
「わたしの神よ
 わたしの神よ
 なぜわたしを
 お見捨てになるのか?」と
叫んだ部分を
苦悩のなかで
毒づいている

解釈されていて
面白いなと思いました。
「あなたに依り頼んで
裏切られたことはない」と
しめくくられる
詩の一部だけど
最後まで口にできず
力尽きてしまったようです。
 ―お釈迦さまの場合は
 人食い鬼に身を捧げる覚悟で
 聞きたい詩を   ←いろは歌の原形
 最後まで
 教えてもらい
 生きたまま
 救われます。
 聞くのと言うのとで
 反対ですが。
神への信頼は大前提ですが
苦しいから
時々毒づく
しかし
そうしながら
イエスは死んでも
復活したように
変化してゆくものが
あるのだと思います。
毒づき病に堕しては
 ―妙に肯定されると
  モンスターになる。
 精神分析では
 「思い上がり」
 これは恫喝されます。
 仏教でもかな。
治るものも治らないと思いますが
イエスでも
毒づくのだから
普通には
あることだろうなぁと
思います。
 ―見極めが大事です。
イエスは自我の象徴ですから
瀕死の状態の
文学的表現です。
『白鳥の湖』なら
黒鳥が出てくるところでしょうかね。
$PTSD研究家翠雨の日記
悪魔ロッド・バルトなんかも怖いです。
$PTSD研究家翠雨の日記
 ―魅力的なので
 危険なのです。
しかし
せっかく毒づきを肯定しながら
被災地には
「なんでこんな思いをしなければ
ならないんだ」と言う人が
いないと
 ―言わせないようにしているような
ほめているのは
ちょっと困るなぁと思いました。
イエスは因果応報を否定していると
書いてますが
仏教では
答えのないことを
考えるのを
 ―二元論を超える
奨励します。
牧師の子であった
ユングも
この問題に悩み
仏教的な考え方を
するようになりました。
そういう意味では
キリスト教は問題があります。
香山リカは
親鸞とわたしについて
シリーズで書きながら
どちらかというと
キリスト教に親しみがあると
書いています。
なるほどなぁと思いました。

津波の洗礼を受けた気仙語の聖書を三浦綾子記念文学館で発売もこころのケア

岩手で
津波の被害を受けた
小さな出版社があります。
在庫はほとんど流されましたが
一部水に濡れながらも
残っていました。
北海道の
三浦綾子記念文学館は
 ―敬虔な信仰で
  病苦と向き合った方ですね。
それを
「津波の洗礼を受けながら
残った貴重な本」と捉え
館内で売ることにしたそうです。
PTSD研究家翠雨の日記
この出版社は
なんとケセン(気仙)語訳の
聖書で知られているのです。
昨日のビンラディン殺害から
宗教学習
ますます必要な世の中になったと
言えると思いますが
 ―寛容になるには
  知らねばなりません。
聖書理解を助けてくれる
よい視点だと思います。
PTSD研究家翠雨の日記
随分前のことですが
NHKのこころの時代で
小塩節さんが
ゴート語に訳された
聖書の話をされていたのを聞いて
そう思いました。
小塩さんは
長崎の出身ですから
ケセン語ではないと思うのですが
「天にまします。我らの父よ」を
おっとう。天にいるんだよね」と
訳されてたのに
共感しました。
神は父親でもあるのですが
原語ATTAは父ちゃんくらいの意味で
fatherのような上品なニュアンスは
ないそうです。
神はグスですが
これも相談相手くらいの意味だそうです。
★地上にも実父がいて
★天上にも父親がいるという
 視点ですね。
 ―父親は2人いるのです。
 現実と非現実で!    ←陰陽ひらめき電球
気軽な相談相手といえば
自分のなかのセルフ
(真の自己)くらいしか
ありませんよね。
 ―対話は簡単ではありませんが
 気安さは他人の比ではありません。
 PTSDも重症になると
 このあたりがあやしくなりますがあせる
聖書解釈も
日本では
バチカンと違い
日々進化しているようですニコニコ

中井久夫先生も聖書も「こころのケアは40日勝負」

中井久夫先生は
阪神淡路大震災の経験から
40~50日が勝負

おっしゃいます。
 ―それまでに
  できることを
  精一杯しておこうとの
  気概が大事です。
  時間が永遠にあると思うと
  うまくいきません。
その後は
頭が働かなくなるそうです。
★第一次世界大戦でも
そのあたりで
限界がきて
武器を投げ出したくなった
兵士の話があるそうです。
 ―人間いつもいつも
 闘っておれませんひらめき電球
★中井先生も
 阪神淡路大震災後
 40日で
 丸一日眠り続けたそうです。
 ―戦場のような場所で
 指揮をとりながら
 土足で踏み込んでくる
 臨床心理士の
 アンケートなどから
 被災者を守られました。
   …
聖書にも
40 という数は
よく用いられますよひらめき電球
 ―日本語なら八百
 八百万の「八百」
 ウソ八百もありますがね。
 陰陽の国ですから。
宗教学者によれば
神の救いのわざの歴史における
新しい展開に関連して用いられるそうです。
 ―神はセルフ(自己)ですから   ←真我
 自己治癒力の
 働く時間でしょうクローバー
★モーセに率いられて
 エジプトを脱出した
 イスラエルの民が
 荒れ野をさまよった
 40年
★ノアの箱舟を
浮き上がらせた
大洪水も
40日40夜の長雨のあとの
40日40夜
★イエスが
悪魔の誘惑を受ける前に
断食をしたのも
40日40夜
こういうのを
史実として読むのは
時代遅れ

 ―アメリカの一部
 進化論否定クリスチャン
【象徴】として
  ―心身霊のありか
$PTSD研究家翠雨の日記
危機対応に意味のある
現実的な数字であるように
思います。